人類史において冥界は一つだけではない。
そもそも生者としての人間は死者となった後の世界を通常感知することは出来ず、冥界と呼ばれる場所は、その概念として人の頭の中に存在するのみである。即ち、死によって消滅するのではなく、魂は次の場所へと赴くべきであるとの一種の幻想――それは現代において覚知することの出来ぬ神や精霊といった存在と同じように。
つまり冥界の女主人ことエレシュキガルが管理する冥界以外にも、冥界と呼ばれる場所は存在し、人の魂は死後、いずれかに向かうのである。
(とは言っても、他の冥界に向かうことなんて、ないのだわ! 大体、管理者が冥界を離れていいはずもないし……)
だが、エレシュキガルは現在カルデアに召喚されており、既に霊基を得ている。今向かうテスカトリポカ神も同じように顕現しており、カルデアに居るのである。神々はサーヴァントとして現界したからとて己の管理領域内に在る絶対的な存在である自分に影響を及ぼすことがない。
というかサーヴァントの霊基なら、他の冥界にも行けるのでは? 他の冥界の偵察っていうのも大事よね、パンフレットだって貰ったのだし。
――と考えて、アステカ神話においての冥界のひとつ、ミクトランパに足を運んだのである。
(服、いつもどおりで大丈夫かしら? テスカトリポカ神って随分と現代的な服を着ているみたいだけれど、もしかすると、ああいう服の方が、マスターも好きなのかしら……?)
スカートの裾をピンと伸ばして、エレシュキガルは自分の知らない冥界に降り立った。
不思議な気持ちだ。それは、他の神の領域を侵蝕することとは違う、まるで観光地に来たような気分で、あの薄暗くて、光も刺さないような静かな冥界に――来るのだから。
「良く来たな。疲れているということもないだろうが、まぁ座れよ」
辺りは煙っている。見慣れた、そして嗅ぎ慣れた死の気配が漂っている。ここは冥界だ。
「お招きありがとう、テスカトリポカ神」
ふわりとスカートの端が揺れる。女神としての威厳はこれで大丈夫かしら、とエレシュキガルは思う。目の前にいる男は、アステカ神話においての全能神。冥界を管理する神としての立場は変わらないと思うが、同格と言えるのだろうか、と無意識に考える。
(いいえ、神に上下などあるはずがないのだわ。女神として、威厳を持って……)
エレシュキガルは顔を上げて、焚火の前に佇む男の方を見た。金色の長髪、薄暗いのに明るい紅茶のような色をしたサングラスが印象的だ。緊張する必要などない。カルデアでも会っている。和やかに談笑もしている。冥界管理の苦労話だってできるような仲だ。
しかしここは男の領域で、ここは自分の権能の届かぬ地だ。油断して良い場所ではない。同じマスターの下に集うとしても。
「と、ところで、パンフレットとは随分印象が違うみたいだけど……」
深い煙に包まれている。テスカトリポカ神が煙を吐く鏡という名の神であることは、同業者の誼で知っているが、これでは数里先どころか、一寸先も見えてこない。焚火、そして煙草をふかす神の姿が見えるだけだ。
(も、もしかして、これがよく言う、パンフレット詐欺ってヤツ、なのかしら? どうしましょう、同業者があくどいことをしていると知られたら、冥界全体の評判にも関わる――)
エレシュキガルの顔がさあっと蒼ざめたところで、テスカトリポカは、「焦るな、まだ入口だ」と言った。
「ここは、死んだ戦士の魂を見極める場所でね。ま、こんな場所に来るヤツとは言え、迎えるに値するかどうかの最終チェックをしている。そうでないとなれば、地上に戻してやったりもする」
「地上に? それって、生き返らせるということ?」
テスカトリポカは喉の奥でククッと笑った。
「ここのルールはオレだからな。そういう取引もあるということさ。それじゃ、行くとするか、スパリゾートに」
エレシュキガルは現代文化のことをサーヴァントの知識として有している。それだけではなく、カルデアで過ごすことで、よりそれらの知識を増やしている。特に興味深いのは島国の文化。自分とは異なる場所にこそ興味を惹かれるというもの。マスターが育った場所では何が流行っているのだろうか。何が好まれるのだろうか。彼らの常識の源泉はどこから?
――マスターのことだけではなく。
ともかくマスターの住む日本という地方でその男の風貌は、少々派手というか、荒事を好む輩に多い風体であるような気がする。カルデアで見知っているので、今更だが、スパリゾートという言葉と不似合いだと、パンフレットを見た時にもエレシュキガルは思ったのだ。
「何をしている? スパの見学が目的じゃなかったか?」
「な、何でもないのだわ。ええ、そうね。見せてもらいましょう、究極のスパリゾートというものを」
エレシュキガルは冥界の主人として、冥界に来る魂に安らぎを与えるべきであると考えている。あまり極楽のような気分にするべきとは思わないが。それって天国とか極楽とか呼ばれているところの仕事じゃないの?
だが時代は進化している。冥界のトレンドが極上スパなら、それに乗るのだってやぶさかではない。
「――着いたぞ、ここがウチのスパリゾートだ」
「すっ……、すごいのだわ!」
エレシュキガルが赴いたことはないが、華やかなハワイ、もしくはフロリダだろうか、テスカトリポカが案内してくれた先、霧の向こうへ少し足を伸ばすと、そういった先進的かつゴージャスな建物が現れた。波の音が聞こえる。カモメの鳴き声が聞こえる。立ち並ぶヤシの木が海風に揺れる。正にここは常夏のリゾート。楽園だ。
ミクトランパは同じ冥界カテゴリに属する死した戦士の魂が向かう場所ではあるが、楽園とも言われている。やはりこれが今後の冥界の標準装備なのだろうか。暗くて、ジメジメした場所なんて、やっぱり流行らないのだわ――!
「エレシュキガル神か」
豪奢なスパリゾート、ホテルに足を踏み入れる前に、聞き知らぬ男の声がした。
「ミクトランパにようこそ。――まぁ、オレが言うことでもないだろうが」
「え……? 誰、なのだわ?」
エレシュキガルがきょとんとルビーのような色の瞳を丸くして見ていると、デイビット、とテスカトリポカは男の肩を親し気に抱いて笑った。
「来客があると聞いていたが、彼女は冥界神としての繋がりか?」
「ま、そういうところだ。同じ冥界神として、ウチのスパリゾートの視察に来たいと言われてね。どうした、オマエも気になって来たか?」
「ああ。もしかすると新たな戦士の魂でも訪れたのかと思って」
紹介しよう、ウチの戦士だ、とテスカトリポカは笑って言った。
「デイビット・ゼム・ヴォイドだ。異聞帯では会ったことがなかったな。――ああ、あの時はニンキガルだったか? まぁ、姿くらいは見ていた筈だが」
エレシュキガルは少し前に異聞帯でオルタ化させられ、召喚したカルデアと完全な協力体制を結ぶことが出来なかった。テスカトリポカ神はその異聞帯において、カルデアとは完全に敵対関係にあったクリプターのサーヴァントだ。そうだ、テスカトリポカ神と共に自分のあの領域を渡っていった男がいるのを見た。
(人間なんて米粒みたいなものだから気付かなかったのだわ! あの時、テスカトリポカ神を召喚したクリプターね!)
(えっ、でも、どういうことなのだわ? どうして異聞帯にいたクリプターがここにいるの?)
男は紫色の根深い色をした瞳をこちらに向けた。一瞬、冥界にいる魂の暗さのようでエレシュキガルは驚く。人の持つ色ではない。地の果てを覗いていそうな瞳。まるで深淵。
「コイツは死後オレがこの冥界に連れてきたんだ」
「えっ……、そう、なの……?」
「アステカ神話の土地で戦いの場以外で死した戦士はオレの下に来る。事前にそう伝えてもいた。オレの下にくることに不思議はないだろう?」
テスカトリポカと同じ長身、感情を映し出さない瞳。だが、それに怯むような冥界の女神ではない。
「そ、そうですか。死した魂が安寧を得られるようにテスカトリポカ神が施しているのでしょうね。そのことに感謝なさい。そして、あなたの魂に安らぎがありますように」
どうかしら、これで女神としての威厳はちゃんとあったかしら、とエレシュキガルが心配しながら眼差しを向けると、クリプターの男――デイビットは「ああ、ありがとう」と頷いた。
「そうだな、デイビット。ちゃんと神に敬意を払えよ」
「払っている。感謝もしている」
テスカトリポカはデイビットの頭をわしゃわしゃと撫でた。エレシュキガルはびっくりして紅い目を丸くした。気の所為かしら、何だか異様に距離が近いような……。テスカトリポカ神はフランクな人だとは確かに思っていたけれど、そもそも、冥界神とそこに来た魂って、こういう距離感でいいものなの?
(じゃあ、私も、マスターの死後はこういう感じで接していいのかしら――?)
「エレシュキガル、オマエに渡したパンフレットを作ったのはコイツさ。どうだった? 戦士が最近来ないっつったら、魅力を伝えるパンフレットを作ったらどうだと言ってね――」
「え? え? そ、そうだったの? あなた、死後も神の手伝いをしているの? 随分と勤勉な魂なのね……」
エレシュキガルが感嘆すると、デイビットは少し笑ったようだった。動かないと信じていた石像が動き出したようで、エレシュキガルはまた驚く。テスカトリポカ神は現代知識にかぶれているようにも思うが、冥界の運営に関して真摯に行っていることをエレシュキガルは理解している。何事も、勤勉であることは良いことだわ、と思っている。その元にある魂も同じく勤勉な性質を持っているのかも知れない。
「働いてばかりじゃないさ。何せコイツは、普段は涼しい部屋で映画三昧だ」
「映画? ここって、映画館もあるの?」
「スパには付けていないがね。そうだな、そういう施設もアリかも知れん。シアタールームの追加ね」
「エレシュキガル神、シューターはどうだ? クラスはランサーだと聞いているが、そういうのも得意か?」
「え、ええ、(こっちの霊基は)勿論そうね! シューター? そういうの、テスカトリポカ神も得意なのかしら?」
「いや、コイツは……」
「デイビット。スパに来たなら風呂だろうが。ジャグジーにサウナを堪能してもらって、部屋でマッサージだな」
「マッサージもあるの? 至れり尽くせりなのだわ!」
マッサージなんて誰がするんだ? とデイビットは横に尋ねた。テスカトリポカは、いるだろうがジャガーマンだとかが、と言っている。
カルデアのマスターの下には多くのサーヴァントが集っている。そのことを、エレシュキガルは誇らしく思う。まるで自分のことであるかのように。多くのサーヴァントに慕われるような魂だからこそ、自分もその光に惹かれたのだ。
けれど時折、ほんの時折だけ思う。――私だけのマスターになってくれないかしら。そんなの、自分が愛した魂ではないと知りながら。
(あぁ、羨ましい)
目の前を見て、何となくそう思う。彼のサーヴァントはもうテスカトリポカ神だけなのだろうな、と。
(いいえ、まだまだこれからよね。冥界に連れてきて、そうして、テスカトリポカ神のように私のマスターを可愛がってあげればいいのだから! その為には、もっと冥界を魅力的にして、藤丸が死後、絶対に来たいって思うような――)
いっそのこと、こんなふうに攫ってきてしまうのもアリかも知れないわね、とエレシュキガルは思った。
テ「攫ってない」
エレちゃん・・・天井の女神・・・(天上ではない)という気持ちを込めて書きました。第三者視点のなかよしテスデイはいいのだわ~。
もしかしたらこういうこともあるかものおまけ。
エ「ほ、本当に色々あるのだわ~! 海もとてもいいけれど、リゾートホテルならプールもあるのかしら?」
テ「泳ぐなら海があるだろう」
デ「家にあるだろう? こないだ、かなり立派なのを作ったじゃないか。そうだ、持ってきてエレシュキガル神にも見せたらどうだ?」
テ「デイビット」
エ「も、持ってくる? よくわからないけど、一度作ったものを動かすのって、かなりリソースを使うわよね? 軽々しくしない方がいいんじゃないかしら?」
デ「……?」
テ「そういう問題は客人に気にさせる必要はないだろう。エレシュキガル、見たければ家に来てもいい」
デ「ちょっと待て、おまえ、あんなにいつも気軽にやってたのに、リソースを使っていたのか?」
テ「オマエが気にするようなことじゃない。ただ、冥界神、全能神と言えど、何もかも無限に行えることではないという――」
デ「家も? 山も? 海も? プールも?」
エ(な、何だか大変なことになっているのだわ……)
※うちのミクトランパはリソース無限のつもりでいつも書いているけど有限ならこういう話もあるかも。