Q・Pが卒業して寮を出たら一緒に暮らすことは二人のあいだで決まっていた。レンドールの借りている部屋は、ひとりで暮らすには少々広いような気がしていたが、世界代表戦での監督という立場柄、あまりにも狭い家では格好が付かないだろうと考えて選んだので、部屋には十分な余裕がある。Q・Pには、半ば物置と化していた部屋を自室のように使ってくれて構わないと言ったが、Q・Pはその提案にそれほどの興味を示さなかった。ただ、私物を置く場所としてはそこで良さそうだとは思ったらしい。
レンドールの家のなかは乱雑にはなっていないものの、整頓が得意な方ではない。整理整頓が好きな知人が多いので、これはレンドール個人の問題であろうが、人が来て困るようにはしていないだけマシ、という現状である。恋人が通ってくるようになってから大分、物置に物を詰めこんで仕舞うようになった。今となっては妻に、みっともないところはやはり見せられないので、かなり頑張ってその物置部屋を整理した。
「あとは、問題は――」
これかなぁ、とレンドールはビニール袋にぎゅうっと詰めた古い服を見た。古いと言っても、廃棄しなくてはならないほどに汚れてはいない。ただ、現在では着ていない。この一年ほど着た実績のない服だった。
レンドールは非常に若くて可愛い恋人ができたときに、マズいな、と思っていた。年齢の問題である。二人のあいだの年齢差は誰かに指摘されるまでもない。あまりにも大きな差だ。隣で並んで歩いたって、コーチと選手にしか当然見えないし、良くて兄弟、下手したら親子にしか見えないだろう。そう言われたとて、もう受け入れるしかないことなので文句を言う気はないが、少なくとも、Q・Pにはあまりそういうふうに感じてほしくはないという切実な感情があった。
『レンドールはいつもスーツでカッコイイね』
なので、Q・Pがそういうことを言ってくれたこともあって、レンドールは、彼と会うときには、努めてそのような服装でいようと決めたのだ。家でも、外でも。監督という立場があるので公的な場では必ずスーツを着用するレンドールとて、家での部屋着にはティーシャツやその類を着ていた。だがそれを全部排除したのだ。可愛い恋人が、いつも「レンドールってカッコイイ」と言ってくれるように。無駄な努力だと言われればそうなのだろうが、そういう見栄と恋愛は切っても切れないものである。
かくしてレンドールは家にあるティーシャツだとか、ハーフパンツだとか、そういう、年齢が見た目に出てきてしまいそうなラフな服を全部まとめてビニール袋に詰めてこの部屋に仕舞い込んだのだった。
さてドイツは環境先進国である。レンドールはそれらの服は自分にはもう必要のないものかも知れないと思いつつ、でもまだ使えるのに捨てるのはエコの精神に反するとも考えて、処分に大いに困っていた。もしかしたら、もしかしたら――可愛い恋人に愛想を尽かされて別れたりしたら、また着るかも知れないし。人にあげるにはさすがに古着すぎて失礼だろう。店だって引き取ってくれやしない。
それで判断を保留にしていたのだが、このほど二人は結婚し、つまり、もう二度とこの服にレンドールが袖を通す日が来ないことがめでたく決定しているのである。
(でもなぁ。まだ着られるんだろうし)
レンドールでも見栄は張り通したいと思う。思ってしまうのだ。環境のことよりも、大事な人が自分を見る目の方に比重を置いてしまう。いけないことだとは思うけれど……。
(こんなものでも活用法があるかも知れない。捨ててしまうのはまだ早いな)
そう考えて、レンドールは袋を自分の部屋の片隅に移して、そのまま置いておくことにしたのだった。
*
その日の午後、引っ越し前に少しずつ私物をこちらに移動しておいた方が良いからと、荷物を持ったQ・Pが来ることになっていた。もちろんレンドールは車を出して彼を寮の近くまで迎えに行く。
「ごめんね、ケン。毎回手間を掛けちゃって」
「気にする必要はないよ、青い鳥。キミの送迎は今後ずっと僕の役目なんだからね」
Q・Pは恐縮するのだが、自分の運転する車の助手席にQ・Pを乗せてあげるのは、どちらかと言うとうれしいことなので、レンドールはちっとも気にしていない。難なら、新車に買い替えてもっと快適にしてあげても良いと考えたくらいだ。それを言ったときのQ・Pの反応は「ミハエルじゃないからボクは車のことはよくわからないよ」で、別にそれほど喜んだというわけではなかったので、とりあえず保留した。
「引っ越しの準備は順調?」
「うん。本は先週持ってきたし、あとは小物と……レンドール、クマの方だから『レンドール』だよ」
「アハハ。彼は元気そう?」
「友だちが増えてるからね」
Q・Pの部屋はとてもシンプルで物がないと以前は聞いていたが、こちらにはいろいろと持ってきているので、どうやら彼のなかでも思い出が増えているようだとレンドールは感じていた。
家に着くと、Q・Pは荷物を降ろしてすぐにキッチンに向かった。今日は遅めのランチを二人で取る予定だ。Q・Pは料理は自分の特技で自分の役目だと思っているらしく、ほとんどレンドールに譲らない。代わりにレンドールは彼の荷物を部屋に運んであげた。大きなクマも、部屋に鎮座させておく。小さな友だちも傍に置いておいてあげる。
自室で使うようならソファでもベッドでも何でも用意すると言ったのだが、Q・Pはそれらにやっぱり興味がないらしい。もともと置いてあったデスクがあれば十分だと言っていた。もちろん主寝室なら別にあるので寝るのはそちらのつもりだし、リビングで過ごすならソファもいらないことになる。本当に、私室として使うよりも物を置いておく部屋になるようだ。
「今日のランチは?」
「シュペッツレだよ。ケーゼシュペッツレ」
「おいしそうだ。チーズのいい香りがしてる」
いつもながら手際がとんでもなく良いQ・Pが、30分でランチを仕上げてくれた。Q・Pの手料理はいつも絶品だ。彼がテニス選手でなければ素晴らしいシェフになっていたかも知れないとすらレンドールは思っている。家に来るといつも喜んで振舞ってくれるので、レンドールにとっても、もはやなくてはならない味。とてもとても贅沢な妻の手料理である。
シュペッツレは南独名物の小粒のパスタ。チーズと絡めて食べるのがとてもおいしい一皿だ。彼の料理が大好きなレンドールはぺろりと食べ終えてしまった。Q・Pはゆっくりと食べている。
「学校はどう?」
「え? 特に変わらないよ」
「ほら、卒業が近いと、ようすが違うのかなぁと思って」
「ルイスが写真を撮りたいって言ってたから一緒に撮ったくらい」
「そっか。良かったね」
Q・Pは卒業後はGTAのグループ企業と契約してプロのテニス選手として活動することになる。彼としては、すでにボルクら友人が歩んでいる道なので、あまり不安やおそれはないのかも知れない。もちろん彼の才能をよく知っているレンドールも、彼が活躍することを疑わないが、これまでと環境が変化すること、端的に言えば学生から社会人へと変わることが彼にどのような影響を与えるのだろうかと心配している。
レンドール自身はすでに代表監督の座を降りて、今はGTAの役員待遇となっていた。コーチ兼役員。なので、最近はアカデミーに通っているものだから、学内にいるQ・Pと会うことは可能で、ようすを見ることもできはするのだが、一応公私混同は避けようというつもりで、積極的に会うことはしていない。役員の活動領域は、学生と重なることが少ないという事情もある。理事長からも、レンドールとQ・Pの関係についてもう口を挟むつもりはないが学生の身分の内はくれぐれも慎んで行動するように、と言われていた。
食事を終えてレンドールはいつものように担当の皿洗いをしていた。シュペッツレは何度か食べられるように大きな鍋で作ってくれたので、しばらくはおいしい食事が約束されている。
Q・Pは部屋で物の整理を行うと言っていた。
「この前レンドールのクローゼットに置いた物も整理するから部屋に入っても平気?」
「もちろんだよ。自由に行き来してくれて構わないからね」
特に何も考えずにそう言ったレンドールは、洗い物を終えてQ・Pが使う予定の部屋に向かったが、彼はそこにはいなかった。それなら先に聞いていたレンドールの部屋、書斎のようになっている方だろうとそちらに向かう。と。
「レンドール、この服って、どうしてまとめて袋に入れてあるの?」
Q・Pがビニール袋を見て首を傾げていたのだった。あっ、とレンドールは自分の部屋にビニール袋を放り込んだことをようやく思い出した。
真っ白で細い指先がビニール袋のなかにあるティーシャツを掴んで、広げる。
「捨てる予定なの? まだ着られそうに見えるけど」
「え……っと、そう、その、古くなったから、どうしようかなーと思って……」
「そうなんだ」
レンドールは動揺していた。何故ならそれは恋人――今は妻――に、要するにダサいと思われないように、もう着ないと決めた服なので。彼が「本当はこんな服着てたんだね、ケン……ずっとワイシャツしか着ないと思ってたのに」と、ショックを受けたらどうしようか。いやまぁQ・Pはそんなこと言わないのだが。でも心のなかでそういうショックを受けてしまったら困る。
(というか、それは僕が嫌だ……!)
「ケン、この服だけど」
やっぱりこんな服を着てたおじさんなんだと幻滅されるのでは、と身構えたレンドールに、Q・Pは「もらってもいい?」といつものトーンで訊いた。
「え? もらう?」
「だってまだ着られるよね。もったいないよ。ケンもそう思ったから捨ててないんだよね? それならボクがもらってもいいと思うんだ、環境のためにも」
「えっ、まぁ、それはそうなんだけど……」
「ボクにはちょっと大きいかも知れないけど、家で着ているだけなら問題ないよ。捨てるなんて良くないよね?」
(えっ、何? どういうこと?)
ドイツは、環境先進国なのである。
そのことははもちろんレンドールもよくよく理解しているし自分でもきちんと意識している。が、それでも、わざわざこんな古着をもらっていくというのは、どういう理屈でそうなるんだろうか。
Q・Pはたしかに物を多く持たない方だったらしいが、着る服に困っているということはない。GTAは被服費をきちんと彼に渡しているとも聞いているし、彼の私服はいつもきちんとしたものだ。こんな古着が必要になることはあるのだろうか? 掃除用具? いや、家で着ると彼は言っているし、Q・Pはそんな程度の低い嘘はつかない。
「ケン、ダメ? 変なことには使わないよ」
「変なこと? いや、別にいいんだよ、キミの好きにして構わないけど……」
「ありがとう。じゃあもらうからね」
Q・Pはビニール袋を持ち上げるとササッと自分の部屋に持っていってしまった。残されたレンドールはぽかんと立ち尽くす。
(とりあえず……ガッカリされてなくて良かった……のかな?)
*
Q・Pはもらった服を着て、自分のなかでは、かなりにこにこと上機嫌だった。Q・Pには特に変態的な趣味はないが、それでも、レンドールが使っていた服というワードにすごくグッと来ていた。
(世の中には古着屋もあるくらいだし、中古の服を着るのは変な行動じゃないはずだよね)
清潔に洗ってあるので、匂いがするということはない。この洋服はただレンドールが着ていたという記憶があるだけ。ほんのそれだけで十分。
今はもうレンドールがずっと傍にいてくれるとわかっているけれど、着ていればレンドールに包まれているような気分になれる。それに、やっぱり自分よりも大きくて逞しくて格好いいということも感じられる。あと物を最後まで使うのは環境にもいい。いいこと尽くめだ。
レンドールが心配しないように、もう一度ちゃんと洗濯をしてからルームウェアとして使おう、とQ・Pはぎゅっとティーシャツを抱き締めて思った。
*
そして後日、ぶかぶかのティーシャツを喜んで着ているQ・Pのすがたが家では見られるようになった。
「やっぱりちょっと大きいみたいだね。まぁ、当然かなぁ」
「でも、大きいだけなら問題ないよ。似合わないかも知れないけど」
「そういうことはないよ。キミはどんな服でも似合うし、それに、ちょっと照れ臭いけど、自分の服を着てるのって、何だかいいなぁって思うよ」
レンドールにもQ・Pにも『彼シャツ』概念への理解はないのだが、何となくそれっぽいことを感じたのだった。
*
また本を読んでるの? とQ・Pはレンドールに尋ねた。
「ケン、オーバーワークじゃない?」
「そんなことはないよ。今は役員としてもコーチとしても、まだ、あまり仕事がない状況だから、今のうちに資料を読みこんでおかないといけないというだけで……」
「でも、また本も増えてるみたいだし。こんなに読む必要はないよね? ケンはもともとコーチだったんだし、こんなコーチの教本なんていらないと思うんだけど」
レンドールがU-17ドイツ代表監督を辞めて、GTAに所属するようになってから、家のなかには書籍が増えに増えていた。と、言うのも。
(――僕はコーチ業からは随分と離れていたから……)
レンドールは代表監督として、5年程度従事していた。その間、レンドールは選手のコーチとしての活動は基本的に行っていないのである。もちろん、監督という仕事とコーチとしての指導は切っても切れない関係。選手たちの状態や仕上がりを見るのも、日々のトレーニングメニューをチェックするのも、監督の仕事のうちに入るだろう。
だが、個別的に選手を指導することはあまりない。往々にしてそれらはコーチ陣に任せるのが常だ。全体の底上げであるとか、個々の選手の実力を反映してオーダーを作るとか、レンドールの仕事はそれらの方がメインになる。つまり、通常のコーチングはさほどしていないのが現状だ。
レンドールはもともとコーチ上がりだ。監督になる前にはアシスタントを勤めたり、コーチであったこともある。が、どんな仕事も日進月歩だ。日々進化しているし、新たな指導方法が確立されていく。トレーニング施設も、トレーニング機器も新しくなっていく。もちろん、やはり監督としてはそういう技術的な進歩はできるだけチェックしているつもりであるが、それらは選手たちのトレーニングに使われていくのだという俯瞰的な目線でしか見ていなかった。実際に自分ならそういった施設や機器を選手の育成にどう活かしていくのか? というポイントが足りない。
簡単にできるという気持ちで彼のコーチになると名乗り出たのではない。だが、休日にちょっと指導をしてあげていた程度では、日々の状態を見ながら試合の計画を立てて、そこに向けてコンディションを整えつつ、トレーニングメニューを作成していくという選任のコーチの仕事には到底及ばないのである。
それで、とりあえずできることとして、教本を片っ端から取り寄せて把握しているというわけだ。何事も地道な努力が肝要なのである。
(それに……)
GTAに出勤して、レンドールは彼のことをいろいろと聞いていた。
*
「あなたはもともとコーチでしたわね。で、あれば、我が学園についてはすでに存じているものと思料しますが」
「ええと、まぁ、それなりには。というか、僕がいたのは10年以上前のことですので、理事長」
「仕方がありませんわね」
役員というのは通常の職員のように出退勤するものではないようであるが、とりあえず、理事は一室ずつ執務室が与えられるものらしい。レンドールはついでにそこがコーチとしても仕事場という扱いになるようである。
執務室に行く前に理事長室に寄るようにと命じられたので、レンドールは朝から理事長室に来ていた。
「理事会であなたの理事就任はすでに認められています」
「そういうのって、僕は出席しなくてよろしかったんですか?」
「理事会は意思決定の場です。自己紹介の場ではないのですよ? あなたのことは、わたくしたちが決定したことです。あなたの決裁が必要な場面はございません。もちろん今後は可能な限り出席していただきますけれど」
「そうなんですね。どうも、不勉強で」
「協会とは勝手が違うのでしょうね。部屋にGTAの組織体系や沿革、理念などの書かれたこれらの本を用意してありますので、すべて覚えて行動するように」
理事長が示した分厚い資料を見て、レンドールは、この人は全部暗記しているとでも言うのだろうか、と思った。が、口に出していいこともなさそうなので言わない。
「わたくしからはこれで結構です」
「どうも。ご教授いただきありがとうございます」
「それから、Q・Pについては主任コーチを呼んであります。あなたが聞きたいのはそちらでしょう?」
「ありがとうございます。Q・Pから聞いたのですが、彼のチームの主任はあなたの夫であると」
理事長はじろりと鋭い視線をレンドールに投げた。
「そのことがあなたにどのように関わるというのかしら?」
「いえ、別に何もありません。失礼しました。プライベートに立ち入るつもりは一切ありませんので」
レンドールも別に興味があるわけでないのだが、本人に対しても事実確認をしておこうと思っただけのことである。知っているか、知っていないのか、相手に知らせておこうという意図もあった。
部屋を出ると、先日も似た場所で遭遇した主任コーチが、ひらりと手を振った。
「こんにちは、ミスター・レンドール。Q・Pくんは変わりなく過ごしておりますよ」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ。ミスターの憂いはごもっともなことと思いますからね。さ、執務室にご案内しましょう。そこでQ・Pくんのお話もしますね」
カツカツと靴音が響く。レンドールはいつものようにスーツを着てきたが、主任コーチは白衣を着ている。何故なのだろうかと思ったが、やはりそれもプライベートに類するとして理事長に叱られるかも知れないので訊かないことにしておいた。服装は節度を守れば自由とのことなので。
「Q・Pくんに関する資料は全部ミスターの部屋に置いてありますよ。もしも他に気になることがあれば、ぼくに何でも仰ってください」
「それは、どうも。その……失礼なご質問であれば恐縮なのですが、あなたは僕が彼の専属コーチになるということについて、どのようにお考えになっているのでしょうか」
「うーん、質問の意図がわかりませんね、ミスター。ぼくの仕事内容は変わりませんよ? Q・Pくんには変わらず専属チームが付く。ぼくはその主任です。何も変わりはありません。お給料だって変わりません」
「ええと……」
「もしや、昇給のことですか? 専属のコーチなら給料が上がると。ふむ。でもぼくの給与はそもそも彼女の役員報酬と比べると微々たるものなので気にしたことありませんよ」
「いえ、そうではなく、たとえば方針です。彼についての。彼の普段のトレーニングであるとか、戦術といった面で。今まではそちらが考えていたことでしょうから」
「そういうことは、そもそもQ・Pくんは自分で決めていますよ」
「えっ?」
「前にも話したと思いますけど、Q・Pくんはなんにもぼくたちの手を煩わせません。ぼくがしてるのなんて、日々の健康や彼の状態や具合、それから試合のスコアのチェックなんかが精々です。彼はいつもトレーニングのメニューを自分で決めます。彼は自分の意志ですべてを行います」
(そ、そんなことになっていたのか……!)
主任の言葉にレンドールは雷を浴びたような衝撃を受けた。
「ああ、別にぼくたちのアドバイスを聞いてくれないということではないんですよね。例えば身体的なトレーニングの必要性に関してはぼくがアドバイスをします。握力や脚力、スタミナなど、必要に応じて専任のトレーナーを付けますので、そういうことはしていますよ。でもテニスの技術や試合に関しては、正直ぼくでも誰でも、彼にアドバイスするのは無駄です。彼は自分ですべてを決められます。彼にぼくたちは必要ありません。なので口出ししないというだけです」
「ちっとも知りませんでした」
「ああ、そうなんですね。彼とはよく連絡を取り合っていると聞いていたので、てっきりご存じなものかと」
さあどうぞ、と大きなドアの部屋に立って、主任は手を差し出した。
「あなたの部屋ですよ、ミスター・レンドール」
そこは広々とした一室だった。もちろんレンドールも監督としてはそれなりの待遇を受けてきているのだが、言うなれば、とても高級な待遇であると思う。
(GTAは、グループ企業や寄付金で潤っているんだな)
そのようなことを考えるのは、どうも社会に擦れてきているからなのではないかとも感じるが。天然木のフローリングにやわらかな白と黒の絨毯、壁に掛けられた品の良い油彩画、マホガニーのデスクに書棚。部屋全体にこれでもかと高級感が溢れている。
デスクには先ほど見た資料がドンと乗せられていて、書棚には何冊もファイルが詰め込まれていた。
「どうですか? 素敵な部屋ですね。ぼくもこういう部屋が欲しいなぁ。ミスター、これらすべてがQ・Pくんに関する資料です」
「え? あ、どうもありがとうございます……」
ポリプロピレン製の白いファイルがずらりと並んでいる。随分な量があるとレンドールが驚いてファイルを一冊手に取ると、そのなかにはびっしりとQ・Pのデータが記されていた。
「身長、体重、握力……これは彼の測定結果ですか?」
「ええ、そうです。これらは二週間ごとにチェックして記録されています」
「に、二週間ごとですか?」
「ええ。彼の状態をただしく把握することは、ぼくたちの大事な務めですから」
全然、まったく、そんなことはレンドールも聞いたことがなかった。
「彼の身長と体重は彼にとって理想的な値です。彼はもう少し身長を伸ばしたいようですが、彼の脚の長さはコートを縦横するに十分。むしろ軽い方がいい。やや細身で、体格の良い選手と比べてしまえば、ぱっと見、筋力では劣るように見えてしまいますが、彼はあの細さであれだけの球威、スピードが出せるのですから、身長なんかで今以上に球速を伸ばす必要はありません。むしろ彼は余計な肉を付けずに軽やかに動く方がいいはずです。羽が生えているように」
にこりと主任はほほえんだ。少々異様なように感じもして、レンドールは圧倒されてしまう。
「ああ、ですが、もちろんミスターと協議いたします。どうでしょうか。ミスターは、Q・Pの要望のように、今よりも身長があった方が良いとお考えですか? まぁ、身長を伸ばすのはさすがに容易なことではないので、場合によっては手術となるかも知れませんが」
「今のままで十分だと思います」
「そうですよね。ご意見が一致してうれしい限りです」
(そもそもQ・Pも手術してまで身長を伸ばしたいとは思わないはずだ……!)
「スタミナに関しては、ミスターも気にしているようだとか。もちろんこちらとしても、基礎体力用のトレーニングメニューとして提示しているものの、そこは技術力と比べるとどうしても伸び悩んでいますね。Q・Pくん、スタミナより速攻が好きみたいです。速攻で相手の戦意を挫いて終わらせる。もちろんあなたの考えたように、試合を上手く利用するというトレーニング方法は巧みだと思っています」
「すみません。話を聞いていると、何だか、僕は彼について勝手なことをしてしまっていたような」
「いえいえ。先ほども言いました。彼は彼の意志で選ぶので。ぼくから聞くか、あなたから聞くかに差はありませんよ。これまでは。彼は今後、あなたを一番の指針として成長していくのでしょうね」
当て擦りを言っているのではない、とレンドールは思う。この人は本心から、自分でもレンドールでも構わないと感じている。そのうえで、Q・Pの今後についてを見据えているようだった。
レンドールはもう一度彼の記録のページへと視線を落とす。
「細かくて驚いたでしょうか? ですが、彼は――こういう言い方をしてもどうか怒らないでください、ミスター、彼は、ぼくたちの『成果』なのです」
「……最高傑作、ですか」
「ええ。彼女が特に好んで言いますね、それ。すべてあなたが見抜いていたとおりなのです。ミスター、ぼくたちは彼を喪うことには耐えられません。彼にはどんな技術も惜しみなく与えました。どんな研究結果も余さず試しました。彼はぼくたちが大事に育ててきた成果、希望なのですから」
主任はそう言って、やはり穏やかに笑った。
「彼が飛び立つのなら、その成果は我々のものでもあります。そう誇っています。そして今後も、あなたを通してそうあれたらと願うばかりです。であれば、彼に優秀な指導者が現れてくれたことを心から歓迎しているのですよ、ミスター・レンドール。あなたのご質問にはこれで答えられていますか?」
*
――というわけで。
(話を聞く限り、僕がすべきことはかなり多い)
ひとりで十分なトレーニングメニューを選び実行できるという優れたQ・Pに、コーチ《自分》が必要であるという存在感を示していかなければならない。そのために、これまでに蓄積されたQ・Pのデータをすべて把握しなければならない。それから、彼をプロとしての試合で戦わせていく以上、ライバルの分析は日々行わなければならない。自分の技術の拙さを底上げする時間が足りない。
そのうえ、役員としてGTAの運営にも関わるためには学園のことを知らなければならない――。
(全然暇がない!)
だが、日々テニスの技術を磨き、頂へと挑戦していくQ・Pの方が、その何倍も大変な道をこれからも進むのだ。自分はただの座学程度で音を上げていられるものか、とレンドールは思っている。
血を吐くような努力をする。積み重ねる。それは昔も同じだ。むしろ、何のキャリアもない自分が監督になる方がよほど大変なことだった。実力でないとは言わないが、そこには天運もあっただろう。誰も彼も同じことであるはずだ。
「ケン」
隣に座っていたQ・Pがレンドールの腕を軽く引っ張った。それから頬にやわらかく唇が触れる。瞳が「ボクのことも構って」と言っているようだった。
彼がいささか年相応とも言えるような行動をしたことにレンドールは驚いた。そして、まだ週末にしか会えないというのに、せっかく家に連れて来た可愛い妻を放っておいてしまったことを申し訳なく思うと同時に、年相応らしく甘えてくれたことにかなりときめいていた。
「ケン、寝て」
「え?」
「ここに寝て」
言うが早いかQ・Pの腕がレンドールの身体をぐいっと引っ張った。力が強い。レンドールよりも細く、一見するとか弱いようにすら見える腕の力は、GTAでも聞かされたとおり、めちゃくちゃ強い。レンドールの身体はあっけなく横に倒されて、Q・Pの膝のうえに頭が乗せられた。
「えーっと、Q・P?」
「こうやって寝てると、疲れが取れるって」
「どこの情報?」
「ヤーパン」
「日本ってなんだか変わったこと考えるよね……?」
どう? と上からQ・Pがじっと見つめている。
(どう……なんだ……?)
下から見てもQ・Pの顔は美しい。横顔はいつも見つめているが、この角度からは新鮮だと言えるだろう。ぱちぱちと瞳がまばたきするたびに、真っ白いまつげが揺れている。
頭部を預けている太ももは、硬いとは言え、枕に比べて人間の脚がやわらかいはずはないだろう。Q・Pの指先がレンドールの頬を少しだけ躊躇いがちに撫でた。
絵画などでこういう姿勢をしているのを見たような、見ないような。
よくわからないが、この体勢で本を読むのは困難だ。他にできることもないだろう。彼の顔を見つめて、言葉を交わすくらいのことしかできない。それが正解なのだろうか。考えることを多くせず、ただこうして愛する人に身を委ねるということが。
「何と言うか……ごめんね、キミがせっかく来てくれているのに、僕は本ばかり読んで」
「ボクのことはそれほど気にしなくていいけど、最近、根を詰めすぎてるんじゃないかって心配してるよ」
そう言ってから、Q・Pはふわりとレンドールの額を撫でて「やっぱりちょっと淋しかった」と言った。
(可愛いなぁ)
レンドールの口元に笑みが溢れる。それに、感情を率直に言葉にしてくれてうれしいと思った。
「子どもっぽいって思ってるの?」
「思っていないよ。でも、いつも言っているけど、キミの年齢はまだそう呼ばれる程度なんだから、そういう振る舞いであっていいと僕は思ってる」
「ボクはそうじゃない方がいい。子どもじゃない……」
レンドールはますます笑って、身体を起こした。
「でも、子どもだなんて思っていないよ。キミはいつだってひとりでもちゃんと過ごしていたんだからね。だからこそ、キミが甘えられる人がいた方がいいと思っているし、それが僕ならいいと思っているだけなんだ。――いや、僕以外であってほしくない。そうだったら困る」
だってキミは僕の奥さんなんだから、と口づけてから言うと、Q・Pは小さく頷いた。
「キミの一番頼れる人がいいよ」
「もちろんだよ。ケンだけ、ケンが一番だから」
「良かった」
「でも、ケンのことが心配なのは本当だから」
「ありがとう。キミが傍にいてくれたら、それだけで心は充足しているからね。さっきのも、いろいろと考えてくれてありがとう。優しい僕の青い鳥」
膝に頭を預けるという不思議な体験も、決して悪いものではなかったけれど、やはり抱き合って触れ合う方がいいなと思う。指先を繋いで、唇を重ねて。
「ン……、ケン、仕事はもう終わりにする?」
「今日はこれでおしまい」
「じゃあ……」
「シャワーを浴びてくるよ。ベッドで待ってて」
「……うん!」
まぁ、いろいろとやることは山のようにあるわけだけれども、ひとつずつクリアにしていくほかない。Q・Pが心配してくれるとおり、無理をしても仕方がない。この歳になってくると、身体の事情を考えないわけにはいかないのだ。
つまり、だ。せめて休日くらいは可愛い妻との甘いひと時を楽しみ、心の回復に努めよう。人生にはそういう日が重要なのだ。レンドールはそう思った。
*
「キミが専属コーチを付けていなかったのは、キミ自身がいつも決めていたからだったんだね?」
「その話、主任に聞いたの?」
さっきまで自分の下で甘い声を上げていた可愛い奥さんは、レンドールの腕のなかで身体を少し丸めている。表情はもういつもと変わらない。さっきまで、「もっと」と甘い声でねだっていたのに、なんて少しだけ考えてレンドールの口元は緩んでいたのだった。
Q・Pはまだ若いので、一度で済ませないでほしいと考えているようで、いつも「もう一回」と可愛くおねだりするのだが、レンドールとしては、彼の身体が最優先だといつも諭している。レンドールも、年齢的に彼ほどではないが、枯れているということもない。しかし、出すのは一度きりと決めていた。Q・Pの身体は繊細そうに見えてとても頑丈だが、こういう行為はいつもと違う器官を使うので、やはり身体に負担は大きいのである。
だからと言って、時間が許せばいつもシているのだから、別に接触が不足しているとはレンドールはまったく思わないのだった。Q・Pのおねだりも、要するに睦言の一種なのだと捉えている。
実際は睦言と呼ぶには程遠いような会話をしているわけだが、Q・Pは耳元でずっと甘い言葉を囁いてほしいと思う方でもないらしい。澄ました顔もいつもと変わっていないようだった。
「最初はコーチがいたんだけど」
「あ、そうなんだね」
「うん。ケンのほかに。何人かいたけど……長続きしなかったよ」
(それはどういう意味なんだろうか……)
そもそものQ・Pは、どんなコーチにも心を開かなかった、として冷遇されていた子ではある。が、レンドールとの繋がりを通して、その点に関してはかなり落ち着いたようだった。彼が大人を苦手とするのは、まずもってGTAの責任でしかないのだが、彼自身が少しずつ周囲を信用できるようになっていたのだと思う。そんな彼の成長に多少なり自分が寄与できただろうということは、レンドールも自負するところである。
Q・Pは、10歳のときにテニススクールの選手を全員倒した。これは主任から聞いたことである。レンドールがGTAを離れてから、二年後ほどのことだろうか。
「10歳になるまでは、専属のコーチはいなかったよ。コートで他の子と一緒に指導を受けて、あとは自分で練習してただけ」
「それで、ひとりで全員を倒したの?」
「そんなに強くなかったから」
いやそれはキミが強すぎるだけなんだよ、とレンドールはしみじみと思った。そのことは、元GTAコーチ(現在もそうではあるが――)として、レンドールもそこにいた選手たちを多少なりとも知っているからこそ、よくわかることなのだ。
「そのあとコーチを専属で付けてもらったけど、あんまり話を聞いても仕方なかったから。気付いたら何人も入れ替わってたよ」
10歳でスクールの全員を倒した天才少年に、役に立たないアドバイスしかしない、とか切り捨てられたら、コーチとしての自信や自尊心が砕かれて心が折れそうだ、とレンドールは思った。いや、これはQ・Pに独力で戦えるだけの力がある、ありすぎるからであって、多分誰が悪いということではないのだろうと思う。強いて言えば彼が心を閉ざすきっかけを作った当時のGTAのオーナーたちが悪かったのだと言える。これはいずれにしても間違いない。
「それで――中学に上がったときに、コーチでなく専属でチームを付けるって話になって、主任が決まったんだ。チームにいるコーチは何度も変わってるから、ボクは全員覚えてないけど」
「主任は、キミのコーチはやっていなかったんだよね?」
「ボクの専属で? それはやってないよ。主任はもともと中学生を担当していたみたい」
「ああ、それで中学になってからのキミに就くことになったのか。そのままずっと変わらないんだね」
「主任はうるさいことを言わないから」
「ハハ……じゃあ僕も、あまりうるさいことは言わない方が良さそうだ」
「ケンは別だよ。ちゃんと話を聞くから何でも言って」
――もし僕がキミの傍にいられたら、キミのコーチはずっと僕だったのかな。
ふと栓なきことをレンドールは考えた。それは幸せだったかも知れない。或いは、いつか別れてしまったのかも知れない。どうあれ人生に「もしも」はない。その選択肢は永遠に喪われたのだ。
Q・Pは、すり、と頭をレンドールの胸に擦り付けた。
「無理しないでね」
「してないよ。自分にできることをしてるだけさ」
頷いたと思うと、Q・Pは目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてくる。
さっき考えたもしもの世界があったなら、そこには優秀な選手Q・Pと、それをずっと育ててきたレンドールコーチのすがたはあるかも知れない。けれど、このように、抱き合って眠る日はあっただろうか?
もしも今とそれが違うのなら――、今の方がいいのかも知れない、と思う。だってやっぱりそう思った方が幸せだ。今が一番幸せで、自分たちの選択は、これで良かったのだから……。
そう思いながら、レンドールも目を閉じた。
*
「そういえば、スクールにはGTAの運営する学園の学生しか入れないんですか?」
「いえ。ミスターがどうしてそのようにお考えになったのかお聞きしてもいいですか」
「単純に、スクールの生徒は学生名簿にも全員載っていますので」
主任は首を横に振った。
「そういう決まりはありませんよ。例えば学園の学生は学生寮に入るという決まりはありますが、スクールの生徒は学園の学生に限るという規定はありません。ですが、実態としてはそうなっている。それが実情ですね。ミスターもご存じであるように、我が学園のプログラムは、テニス選手の育成を第一に考えています。当然併設するスクールで練習をし、学園の方ではスポーツに関連する座学を施していく――というのが基本的な方針なのです」
「ええ、ですので、そうなのかと」
「基本的には。ですが学園には普通科もありますから、学生イコールスクールの所属選手の図式はそもそも成り立っていません。テニススクールでは、希望すれば、どのような子でも受け入れることはできますよ。例えばQ・Pの友人のルイスくん。彼はもともと、スクールの方に通いたいと希望されていた生徒さんでした」
「そうだったのですね。昔から学園でQ・Pと一緒なのだと思っていました」
わざわざ取り立てて彼に友人との出会いを聞くようなこともなかったので、それはレンドールも知らない事実であった。
「ええ。ですが、ちょうど中学への進学時期が近かったため、理事長が、一緒に学園に編入されてはどうかと親御さんに打診したんです。ミスターは、これはご存じないことかも知れませんが、GTAは大学への進学率が非常に高いのです。テニス選手の育成を第一に考えていますが、質の高い教師やカリキュラムを用意していますので、専門的でない授業も非常にハイレベルなものであると自負しています。これは、ルイスくん、いえキャロル家にとって都合のいいことなのではないでしょうか。キャロル家が優秀な医師の一家であることは周知のことです。なので、もし仮にルイス氏がプロ選手としての道を選ばずに医師になりたいと希望した場合――ここからでも医大を視野に入れた教育は十分受けられますよ、と」
「それは彼の家、キャロル家への……何と言うか、繋がりを得るために?」
「win-winなのですよ、ミスター。ビジネスにとって、これは素晴らしい言葉でしょう?」
にこりと主任はほほえむ。
実際、目論見通りというか、予測の範囲内というのか、ルイスは医師を志して医大への入学を希望することになったのだ。
「おそらく彼の進学にはまったく問題がないでしょうね。ルイスくんは非常に優秀な学生なのですよ。成績はQ・Pくんに次いで常に学園で2位です」
「テニスでも、そうでしたね」
「ええ。実を言うと、彼ら二人、頭一つ抜けているのです。他の学生と比べると」
レンドールもQ・Pの成績が優秀――というか完璧であるということは、もちろん知っている。ルイスに関しては、やはり知らなかったが。
「Q・Pくんは、テニスでも誰も敵わないのに、成績でさえも誰も敵わないということで、多分他の学生さんたちからすると、雲の上の人みたいなんですよねぇ。彼にとって、親しめる友人はルイスくんくらいでしょうか」
「そのようですね。彼とは親しい関係が続いているようなので良かったです」
「ええ。近頃は学園の外でもお友だちと過ごしているみたいでしょう? 本当に、U-17ワールドカップに出て、得るものが多くて良かったですよ。学園にとっても、非常に実りの多い出来事でした。ミスターは、キャロル病院がGTAと提携協力を望んでいるという話を聞きましたか?」
「いえ、それも初耳です。それは……、ルイスが」
「はい。彼がQ・Pくんをサポートするドクターになりたいと願うからです。早くに手を打っておこうという判断なのでしょうね。親として、経営判断として」
ほのぼのとした友情の裏に潜む策略の影が見えたような気がして、レンドールはやや憂鬱な気持ちにもなった。もちろんこの関係はすべてにおいてwin-winであると理解できるのだが。
「病院からはこちらへの出資も検討しているとのこと。本当にぼくたちはQ・Pくんには頭が上がりませんね。もちろん彼の唯一の家族たるあなたに対しても同様のことだと思っていますよ」
「はぁ。Q・Pの功績がこちらに多大に寄与しているとしても、それは僕には関係がないとお考えください。僕はそういう扱いを望みません。僕の待遇は僕自身の成したことで決められるべきものです」
「わかりました。ミスターは高潔な人であらせられる。或いはそれが、代表監督という仕事へと繋がる秘訣なのでしょうか?」
「ノーコメントです」
「――まぁ、そのようなわけで、スクールの方に入りたいという生徒さんには、学園で学ぶことのメリットをお伝えして、合理的な判断をお願いしているというわけです。誰だって、GTAのスクールで本格的な指導を受けることを望むのならば、当然プロ選手へと至りたいと願うものでしょう? であれば、このお願いは理に適っていますね」
「理解しました。それが実情なのですね。では逆はあるのでしょうか? 学生の方がスクールでの指導を受けたいと望むことは……」
「スクールに空きの枠が出たならば選抜を行います。それは学園の子でももちろん受けることが可能ですが、スクールでは10歳以下で学園に入学すると同時に指導を受ける優秀な子が大勢いるという環境なので、並大抵の子では選抜をクリアするのは難しいでしょうね。先ほどもお話しましたが、学園外からも選抜を行い優秀な選手を入れています。彼らはそのほとんどが別のスクールですでに指導を受けている子たちです。ですので、入学時にスクールでの指導を受けられる状態でなければ、永遠にスクールでの指導を受けることは難しいものなのだとお考えください」
「とても厳しいのですね」
「厳しいのはこのスクールでもこの学園でもありません。アスリートになるということがそもそも厳しい道なのです。そうは思いませんか?」
「仰るとおりです」
何でもそうだろう。才能がなければ登り詰めることができない。しかし幼いころから経験を積めば積むほどに有利になる。当然だ。
Q・Pには才能があって、それだけの環境もあった。望んでそうであったわけではない彼にこのような表現を使うのは憚られるが――運があったのだ。少なくとも、テニス選手として世界を目指すためには。それはかつてのレンドールにはなかったものだった。欲しいと望んだことすらあるものだ。
しかし今となっては、自分ではない誰かの飛躍を望む立場であることをむしろ誇らしく思っている。レンドールは、今も昔も、ただ青い鳥を待っていた。探していた。追い求めていた。だからなのかわからないけれど、自分ではない誰かが掴む栄冠が、自分を何よりも喜ばせてくれるのだと感じていた。我ながら不思議な感覚ではあると思うが、指導者とは多かれ少なかれそういうものだろうと思う。
「と言っても、Q・Pくんは生まれたときからずっとこの荒波に揉まれてきた子です。厳しい世界を誰よりも理解している。彼の精神がそれに負けてしまうことはない。この先も躍進し続けるばかりでしょうね。うん、ぼくも楽しみです」
レンドールは深く頷いた。
彼の運命は数奇なものと言っても過言ではない。両親と共にあれず、また施設で他の子と過ごすことも、養子としてどこかに迎えられることもなく、孤独に生きてきた。けれどその一切に不満を抱くことなく、そして表面的にも他の子と何も変わらないように映る。とてつもない精神力だ。彼は歓声も観衆も苦手だが、それに臆することもない。
(Q・Pがこれから先に待ち受けているのは、いばらの道で……)
彼が望むように世界一の選手になるのは容易なことではない。すぐ目の前にボルクはいるし、手塚や、他のプロ選手、そしてこれから同じ道を歩むことになる若い選手たち――。
けれどQ・Pは、もう孤独ではない。これから先はずっとそうではないのだ、と思う。だから、何を成せても、成せなくても、彼はきっと大丈夫だ。
ザイネウムシュタント。彼の事情。
いつもどおりすべてを勝手に考えて書いています。悪しからず。
もともと先週の分は先に出してしまったものなので、感覚的には先々週の続きはこっちみたいな。まぁ時系列は合わせてないのでどうでもいいことですね。