「ボルクとクニミツが今度のオフに山に連れて行ってくれるって」
「え? 山に?」
「うん。二人とも登山が好きだから」
ハムとチーズのサンドイッチを頬張りながらQ・Pが語るのを聞いて、レンドールは彼の二人の友人について考えを巡らせる。
ユルゲン・バリーザヴィチ・ボルク。現役最強選手として呼び声が高いプロテニス選手の一人。そして手塚国光。日本人でありながら祖国を出てドイツでプロ選手となった、こちらも若き天才選手。
レンドールはQ・Pのテニスが一番好きだと思うし、彼ならばこの道を究められると確信を持っているが、それはすべての選手を常に圧倒できるということを意味しない。むしろ、彼らのような手強い好敵手と切磋琢磨し互いにより強くなるのが理想的だろう。彼らがQ・Pにとって良きライバルであり、そして良き友人であるということは、とても良いことだと感じている。
さて、選手としては良いライバル関係である。それとは別に、私生活においては、Q・Pはこの二人の友人のことを深く信頼し、強い好意を持っているのだ。特に年下の手塚のことは、Q・Pは大のお気に入りのような反応を見せる。そして年上のボルクのことは頼れる人としてよく慕っている。
レンドールは夫として、妻が友人たちのことを非常に大切に思っていることを良いことだと思っていた。
(……でもなぁ)
そのことと、その二人がQ・Pに並みならぬ好意を抱いているということとは、話がちょっと違ってくるんだよなぁ、ともレンドールは思っているのである。
「どこに行く予定なのかな?」
「――マッターホルン」
「ええッ! そ、そんなところに初級者が行くのは……」
「は、さすがにすぐには無理だから近場の山を二人で選ぶって言ってたよ。まだ決まってないみたい」
レンドールはホッと胸を撫で下ろす。
ボルクと手塚の趣味が登山であることは、Q・Pからよく聞かされていた。何でも、三人で集まるときに二人が山の話題になると自分が話に入れなくなるとのこと。プロテニス選手として活躍するQ・Pはアスリートと呼ばれるのだろうが、その趣味は音楽鑑賞とインドア傾向だ。ランニングも好んでいないし、どうやら山登りもしたいと思ってはいないようだった。
「でもキミは、山登りには興味がないみたいだったけど」
「そうだけど。二人がいろいろと準備したり教えてくれるって言うから」
Q・Pの話によれば、二人はQ・Pに、登山にあたって必要な知識のレクチャーをしてくれるほか、装備品も一式準備をしてくれるとのことらしい。日程の調整、コンディションチェックなども全部してくれるので、それならいいかも知れないとQ・Pも思ったらしい。
「そんなに登山の良さをボクに教えたいなら、行ってみてもいいかも知れないと思って」
(……そういうこと、なのかな)
レンドールはちょっと考えた。Q・Pのことが好きな男が二人でこぞって彼を自分たちの趣味に誘うということの、その意味を。
ボルクのことも、手塚のことも、レンドールは知っている。特にボルクとは代表チームを通じて三年ほど関わってきた。だからと言って、監督たるレンドールと選手のボルクとのあいだには立場の違いと年齢差もあるので、Q・Pのように親しくしていたわけではない。今ではQ・Pの方が彼の人となりをよく知っているだろう。同じく手塚とも、付き合いはそれなりにあると思うのだが、Q・Pほどではない。
だが、そのくらいしか知らないレンドールでさえも、その二人の青年が、あまりにも真面目な人柄であることはよく知っていた。真面目で、そしてストイック。しかも驚くほどに彼らはよく似ていた。どちらも性格的な面だけでなく、やけに走るのが好きで、しかも登山が趣味なのだ。レンドールはボルクが手塚の名も知らぬままそのすがたを探していたということもよくよく知っているのだが、手塚国光という出会ったときはまだ少年であった子を知ったときに、何というベストマッチだろうかと膝を打ったものである。二人はめちゃくちゃよく似ている。
そしてQ・Pを含めて、ストイックで真摯にテニスに向かう三人は、何とも似たような組み合わせでの奇跡的なマッチングを果たしているのであった。レンドールは彼らが会話で談笑するのを見たこともないのだが、気が合って楽しく過ごしていることは多分間違いないのである。Q・Pはよく彼らの話をしているし、彼らの試合となると率先して観ていた。
つまり――この奇跡的に真面目な集団としてまとまっているなかであの二人が良からぬことを考えている可能性は皆無。
(なんだけど)
それはわかっている。レンドールも、よくよくわかっているのだ。あの真面目で超誠実な二人が、好意を抱くQ・Pに何かをするだろうか、いや絶対にそれはありえない。その確信がある。ただ、何と言うか、あんまり気分的に愉快な気持ちになりきれないのは否めない。
レンドールは、Q・Pの夫である。美しき自分のパートナーが異性から非常にモテるということのみならず、親しくなった同性の心までも惹き付けていることに、何も感じないわけではない。ただQ・Pは、レンドールのことがとびきり好きで、しかもその感情はというと、年を重ねても増す一方で、レンドールは彼の100%の愛情に一切の疑念も抱いていないのだ。抱きようがないというか。自分だって年下の若くて可愛い恋人にメロメロなんだけども。だから心配は全然ないというか。
ボルクと手塚も自分たちが結婚していることは知っている。あの二人の性格上、既婚者であるQ・Pに何かしたいなどとは考えたこともないのだろう。だからこの何とも言えない苦い感情は、自分の感情が醜いというだけのことなのだ。若くてテニスの実力もあり女性人気もあるような青年たちだからって、嫉妬しても仕方がないことである。それに、初めて登山をするのなら、あの二人が付いているのが、一番Q・Pにとって良いというのは明らかなことなのだから。
「山に行くのはいいと思うけど」
「うん」
「山は、とても危険な場所でもあるからね。僕も知人のご家族が遭難して最悪の事態へと至ったという話を聞いたことがある」
「わかってるよ。でもボルクとクニミツがいるから平気だと思う」
「その二人がとてつもなく頼りになるのは僕もわかっているよ。でも、自然のなかで絶対はないんだ。僕が心配する気持ちもキミにはわかってほしい。僕はキミの夫で、キミのコーチで、そしてキミの保護者でもあるんだからね」
たしか登山用のアプリが今はあったはずだし、とレンドールはスマホを取り出しながらQ・Pに説く。
「そういうものは絶対に入れて。山は電波が届かないことも多いだろうから、万が一のときに備えておこう。それと、当然だけど行くときには必ず事前に僕に言うんだよ? 僕も山の近くには行っておこうかな。それから――」
くどくどと言うレンドールをQ・Pはじっと見て、「行かない方がいい?」と尋ねた。レンドールは慌てて両手を顔の前で振った。
「いや、そういうことじゃないんだ。ただ僕はキミの身の安全がとにかく心配なだけで」
「じゃあケンも一緒に来る?」
「さ、さすがにそれは……二人に悪いからね。二人はキミと行きたいんだろう?」
「そういうことじゃないと思うけど?」
Q・Pは首を傾げた。
彼はとても聡明で、そして鋭い子だ。人は彼をまるで感情を理解していないかのように誤解するのだが――表情の揺らがなさと率直な言い方がその誤解を助長してしまうらしい――、彼は感情の機微をきちんと理解している。人の視線の意味をよく見ている。
そんな彼が自分への好意にだけ極端に疎いのは彼の境遇によるものなのであって彼の所為でもない。でも。
(ボルクとクニミツも大概感情を外に出さない方だからなぁ)
Q・Pにそれを察せよと言っても難しいような気がする。ただ、レンドールが薄々そうだと感づいているように、どうも周囲の人は、それを察しているようではあるのだ。
例えばミハエルは、Q・Pからよく恋愛相談というようなものをされていた、らしい。ミハエルには以前から交際している恋人がいるということをレンドールも聞いたことがある。なので、恋人がいるからそういう話がしやすい、というのがQ・Pの考えであるらしい。
で、ボルクやらクニミツにそういう話はしないのかと問えば。
『ミハエルが、ボルクやクニミツは朴念仁だからそういう話をしないでやれって言ってたよ』
その心は多分……と、レンドールは思っている。彼と答えの擦り合わせはしていないが、ミハエルは多分、二人の感情を察知しているだろう。
ミハエルもちょっとすると軽薄な態度の男だなどと言われているようで、しかしレンドールはそういうふうな雰囲気は彼の本質ではないと思うのだけれど、ともあれ、そういう軟派な雰囲気を持っているにしては、かなり周囲の状況を見ていて、非常に察しがいい青年なのである。
それからQ・PのGTAでの友人のルイス。
彼自身もまたQ・Pに好意を抱く青年である。Q・Pは多分近付いた人間の心を惹き付けるミステリアスな魅力がめちゃくちゃあるのだろう。
(……なんかまた心配になってきた)
ルイスはQ・Pに失恋したとまさに本人に告げて、その本人は見事に何一つ気付いていないという状態なのであった。彼にとっては、これがベターなのかも知れないが。
そしてレンドールにとっても、これ以上の何かがQ・Pに芽生えてほしくないというのが本音だった。いや、彼が何かアクションを取るのなら邪魔はしないが、そこまでの狭量さではないのだが、ただ積極的に自分から「ルイスは本当はキミのことが好きなんだよ」とまでは言いたくないのである。
そんなルイスに関しては、レンドールとも少しあった。
たまたまGTAで彼に会ったときに、Q・Pから聞いたよ、と彼に尋ねたことがあるのだ。
『その、キミが失恋をしたという話を聞いたんだけど、その相手って……』
『監督。高校生相手に勝利宣言するのは、オレはどうかと思います』
『えぇっ! いやそういうつもりじゃないんだけど……』
『じゃあ何ですか』
『確認というか、Q・Pはちっとも気付いてないみたいなんだ』
『知ってます。気付かなくていいですよ。言わないと一生気付かないと思いますし。Q・Pって、全然そういうのわかんないヤツなんで』
Q・Pが全然そういうのわかんないヤツ、になった理由は、やっぱり彼の生い立ちから来る問題なのだ。ルイス曰く、クラスメイトの女子は全員Q・Pが好きだということらしい。らしいが、Q・Pだけは何一つ気付かずにいるとのことだ。
『まぁ、みんなって言うのは語弊があるかも……さすがに諦めて別のと付き合うってのも結構いたんで』
余計に生々しい感じがレンドールはした。
ルイスはこのままQ・Pの親友として過ごそうと決めているらしい。そうして医者となり、彼を今後も支えていきたいと思っている。レンドールとしても、Q・Pが信頼する親友が傍にいることは、彼にとって望ましいことだと思う。反対意見はない。
『オレよりボルクプロとかクニミツのが厄介じゃないですか? まぁ、二人とも別に何もしないですけどね』
で、彼もまたそのように述べていたので、やっぱり周囲にはそれとなく感づかれているらしいのだという話だ。
などという彼を取り巻く状況を改めて考えてみてしまい、レンドールは思わずため息をこぼした。Q・Pはそれをじっと見つめていた。
*
スマホの画面に表示された文字を見て、Q・Pは少しだけ緊張した。だが、待たせてはいけないと思いすぐに通話ボタンを押す。
「こんにちは、お義母さん」
『久しぶりね、Q・P。元気にしている? ケンはどう?』
「特に変わりありません」
『あら。普通に話してくれていいのよ?』
「……うん。何かあったの?」
『用事ではないわ。あなたたちがどうしているか気になっただけよ。今はオフなんでしょう? お喋りしても平気かしら?』
Q・Pは、うんと頷いた。レンドールの母は、明るく朗らかに電話の向こうで笑っている。
『何かあったらいつでも言ってね、と言ってみたけれど、考えてみれば、あなたが急に私に電話をするなんて、難しいことかしらねって思ったのよ。それで、私からちょっと掛けてみようかしらって』
「気に掛けてくれてありがとう。特に問題はないよ。あ、そういえば……」
『あら。何かあったのかしら?』
「お義母さんに聞いてみたいことがあったんだ。ボクが今度友人と山に行こうと話したら、ケンはそれをすごく心配してるみたいなんだけど……」
『Q・Pは山に登るのが好きなの?』
「ううん。ボクは登ったことがないから。でもボクの友だちは、二人いるんだけど、どっちも登山が好きで、いつも話してるから」
『あなたも登ってみたくなったのね? 素敵なことじゃない。私も本格的な登山なんて経験したことはないけれど、ハイキングくらいならね。楽しいわよ』
「うん……二人もサポートしてくれるって言うから。でもケンはすごく心配してて、本当は、ボクに行ってほしくないんじゃないかと思って」
Q・Pはレンドールの心配そうな浮かない表情を見て、やめた方が良かったかも知れないと思った。でも、ボルクと手塚は喜んで準備をしてくれているようで、今さら断りたくないとも思う。Q・Pはレンドールのことを愛しているが、常に彼ばかりの優先順位が高い方がいいわけではない。と、レンドールが考えていることはちゃんと理解していた。
自分にとって重要なこと、大切な交友関係を蔑ろにして良いわけではない。それでは自分の意志がなくなってしまう。Q・Pは人形ではないので、どうしたいか自分で考えるべきだ。でも、どこまでそういう我を通すべきか、まだ判然としないのだ。今まであまりそういうコンフリクトが生じていなかったので。
『そうね。あの子があなたを心配するのにはいろいろな事情があるでしょう?』
「パートナーとしても、コーチとしても、保護者としてもって」
『あらあら。三位一体みたいね。ま、そういうわけだから、心配はさせておけばいいのよ。ケンはあなたの行動を制限するのを嫌がるんじゃないかしら?』
「多分」
『気にしなくていいわ。ケンにとってのあなたなんてずっと、可愛い可愛い青い鳥さんなんだから。したくて心配してるだけなのよ。もちろんあなたは気を付けて登山すべきだけれどね』
「……お義母さんは、ケンからボクのことを聞いていたんだよね」
『ええ。ずっと前にね』
「どういうふうに?」
『そうねぇ。もう10年以上は前のことだから……』
*
母さん僕コーチを辞めることになったんだ、とレンドールが母親に電話をしたのは、退職することが決まり、それから再就職先――清掃員としての――が決まってからのことだった。
自分の事情をつぶさに親に話さなければいけないという必然性はないのだろうが、正直、先行きが見えなくなってしまったので、現状の報告はしておいた方がいいと思ったのである。
『……まさか、アンタまでギャンブルで身を立てるとか言ってるんじゃないでしょうね』
「い、言わないよ」
『じゃあ、酒に酔って何かをやらかしてクビにでもなったの?』
「酔ってはいないよ」
レンドールは物心ついたときから父親の影がない生活をしていたので、どういう人であったのかも何も知らないが、母親のこういう発言の裏には何か、そういうものが見えてくるような気がするのである。具体的に何をしたんだろうか、父さんは。
(酔ってはいないけど、やらかしたと言われたらそうなのかも知れない)
『――なら、何があったの、ケン。あなた、一流のテニスコーチになりたいって、ずっと言ってたじゃない』
「うん……。青い鳥を見付けたんだ」
レンドールがそう言うと、電話の向こうが推し量るように静かになった。
「すごく、才能のある子を見付けたんだ。でもその子は孤児で、スクールは彼を追い出そうとしていて……ただ僕は、それを止めたかっただけなんだ」
『そう。それで、揉めたのね。わかったわ。あなたは昔から、決めたことからは一歩も退かないし』
「ハハ……」
『その子はどうなったの?』
「うん。何とか彼が居場所を奪われることはなくなったよ」
『なら良かったわね。でもこれからあなたはどうするの?』
「うーん、まだ考えてるんだけど、当面はGTAで清掃員として働く予定で……」
『清掃員? あなたはそこを辞めたんじゃなかったの?』
「コーチとしてはね。清掃員としてなら、まだ通えることになったんだよ。今僕はその子のコーチもやろうと思っていてね」
『まったくどういうことなの? コーチを辞めて、清掃員になって、そしてコーチをするの?』
「……ハハ……、本当に、どういうことなんだろうね」
でも後悔はしてないから、とレンドールは笑った。
「むしろこれからが楽しみで仕方ないんだ。彼はきっと、最高の選手になるから……」
――Quality of Perfectに。
*
『――と、いう感じだったかしら。初めてあなたのことを聞いたのは。まぁ、だからそうね、その子がケンにとっては永遠の憧憬、『青い鳥』なんだろうと思ったのよ。まさかパートナーとして連れ帰ってくるなんて、思ってもみなかったことだけど』
「そうだったんだ」
『ケンはあなたを心から愛しているわ。これは、結婚したいと思ったということとは、また違った意味で。あなたの存在と、その才能を愛しているの』
「……わかるよ。ケンがいつもボクに愛情を傾けてくれていることを」
電話の向こうは安堵したように笑っていた。
『でも、そうね、あなたは人気があるから心配しているみたい』
「人気? ボクが? ボクなんて、愛想もないし、人から好かれるとは思わないけど」
『あまり自覚がないのも困ったことよ。たまには周囲のことを気にしてみた方がいいわね』
「わかったよ。ありがとう、お義母さん」
『また電話するわね。あなたも何かあったら教えてね、Q・P』
「うん」
*
義母からの穏やかな電話があったこともあり、その次に義姉から電話があったときに、Q・Pは何の疑問も持たずにそれを受けた。
『ハロー、Q・P、今オフなのよね? シャルにテニスを教えてあげてくれない?』
「ボクが?」
『もちろんあなたよ。どうかしら? あのねぇ、シャルの友だちも来るんだけど……』
義姉の娘にあたるシャルロッテは、レンドールにとっては姪で、Q・Pにとっても、一応は姪になるのだろう。義理の姪? 年齢は3個しか違わないが。レンドールも彼女のことを可愛がっているようだし、もちろんQ・Pとて、大切な家族の一人だと認識している。
しかし、Q・Pは、ちょっと嫌なお願いかもしれないと感じた。なぜなら自分はテニスのコーチではないからだ。
「テニスを教えるならケンの方が……」
『ダメよぉ。ケンじゃちっとも華がないじゃないの』
本職の夫の名前を上げてみてもあっさりと否定されて、Q・Pは、何だかこれは自分が見世物にされるだけなのではないか、と、やや危惧した。たしかにそういう扱いには慣れている。慣れているが、好きではない。
「ケンに話を聞いてみてから」
『そうだわ、Q・P。私ってばいいものを持ってるのよね~』
「いいもの?」
(何の話?)
Q・Pは家族との付き合いもしたことがないので、まして親戚付き合いなど、これまでに一切したことがない。それに女性とも普段からあまり話す方ではないし、年上の女性と言えば、教師とか理事長くらいしか会話をしないのだ。距離感が掴めない。
これがどうでもいい相手なら、その対応もどうでもいいのだろうが、彼女は大好きな夫の姉なのである。対応を間違っていい相手ではない。
『ケンの選手時代の写真♡』
「……ッ! あるの?」
『あるある~。結構持ってるわよ。ケン、選手としては無名だったから、外には残ってないみたいだけど、まぁ家族だからねぇ』
義姉の言うとおりなのである。ケン・レンドール監督は、監督としては非常に高名だが、昔、選手として活躍していた短い期間については、資料がほとんどない。たしかに無名選手のひとりだと言われればそうでしかないらしいのだが、かなり古い頃の監督としてのインタビューで、昔は選手だったという話と小さな写真が出ていたのを、Q・Pは見付けたことがある程度だった。
レンドールに言っても、大した選手じゃなかったと言うばかりで、しかもさほど楽しい記憶というわけでもないのか言葉を濁されてしまう。けれどQ・Pは、若かりしころの精悍なレンドールのすがたもぜひ見たいとずっと熱望していたのだ。
『明日のお昼。いいわよね、Q・P? ウチに来てくれれば、そのときに写真も渡してあげるわ』
Q・Pは一瞬躊躇した。見世物になりたくないし、自分は人に物を教えるのにも向いていないだろう。シャルロッテだってどう思うのかわからない。
『ケンには内緒で、ね。写真、取り上げられたくはないでしょう? ケンってば、このころの写真を人に見せるの、嫌がるのよねぇ』
「……わかったよ」
でも自分の欲望には勝てなかった。レンドールの貴重な写真は絶対に欲しい。
それに、多分、親戚との付き合いというのはこういうものなのだ。Q・Pは自分に言い聞かせる。自分ではない誰かと暮らす、生きるということは、自分ではない事情にも関わっていかなければならないということ。多分。
だから仕方ない、とQ・Pは自分を納得させたのだった。決して写真だけがオンリーの理由ではないのだ。
*
翌日、レンドールはGTAの方が役員として呼ばれていたので、Q・Pは特に何も言わずに、彼の姉の家へと向かった。本人は不在で、シャルロッテが出迎えてくれるということだ。
「まぁ、ほんとうに来てくれたのね。いらっしゃい、Q・P」
玄関の前でシャルロッテは手を振った。年頃の少女らしい短めのチェックのスカートを見て、テニスウェアはどうするのだろうかとQ・Pは思う。
シャルロッテの笑顔は何故だかレンドールを彷彿とさせる。遺伝上の繋がりはあるとは言え、叔父と姪では少々遠い気がするのだが。
「ママが、Q・Pにはこれを渡しておいてって」
「ありがとう」
「これなぁに?」
「写真」
「ふうん。でも本当に来てくれると思わなかったわ。何して遊ぶ?」
「テニスのコーチだって聞いたけど」
「それはもういいの。なくなっちゃったわ」
(何で?)
Q・Pは戸惑った。どういうことなんだろうか。というか、何なのだろうか、これは。こんないい加減な話があるというのだろうか。Q・Pには信じられない。こんないい加減に生活しているなんて。
「ねぇ、出かけましょう? お買い物したいわ、私」
「でも、ボクが今日来たのは」
「Q・Pって叔父さまと付き合ってるの? もう、結婚とかしているのかしら?」
にこっとシャルロッテは笑った。Q・Pも遠巻きに話を聞いていただけなのだが、彼女が周囲に情報を漏らすおそれがあるので、彼女には結婚のことは話していないとレンドールや義姉は話していたはずだ。
「だって、叔父さまがどうしてウチにQ・Pを連れてくる必要があったの? あなたが家族だからでしょう? 考えればわかることだわ。ね、Q・P?」
子どもじゃないのよ、とシャルロッテは笑う。彼女の言いたいことが、Q・Pにはわかるような気がした。自分も子ども扱いされたくはないし、彼女もまた同様なのだ。何も知らない、わからない子どもじゃないと、15歳の少女は訴えている。それなら自分くらいは、彼女の意志を尊重しようとQ・Pは思った。
「うん。ボクはケンと結婚したんだ。だから、キミの家に行ってお義姉さんに挨拶をしたんだよ」
「教えてくれてありがとう。大丈夫よ。全部内緒にしておくわ。シャルは家族を困らせることをしないもの。だから今日はお買い物に付き合って?」
「それは、叔父と姪として?」
「ウフフ、もちろんよ。もう一人の叔父さま!」
シャルロッテはQ・Pの腕に抱き着いた。
「買い物に付き合うのはいいけど、キミと出かけたことは、帰ったらちゃんとケンに言うよ」
「ええ、その方がいいわね。私、ケン叔父さまのこと嫌いじゃないもの。嫌な気分にさせたくはないのよ」
――今すでにやや嫌な気分にさせてしまうような気がするんだけど。
恋人だったころにはほとんど考えなかったことだが、レンドールもやきもちを焼くことがあるようなのだ。だから、多分、シャルロッテと出かけるのはいい気持ちにはさせないだろうなと思うと、Q・Pは憂鬱だった。
しかし、これもまた親戚との付き合いというものである。Q・Pは覚悟を決めた。自分は、生半可な覚悟で結婚したのではないのだ、と。もちろん二人で暮らしていて、一人なら気軽・身軽で楽だったと思うことはある。それはきっと考えが甘かったということなのだろう。レンドールとのことなら、不便を上回る幸福があるからこれまで気にしなかったけれど、夫婦で過ごす以外にも起こる不便には、自分なりに向き合っていかなければならない。
「じゃあ、行きましょう、Q・P」
「何を買うの?」
「うーん、何にしようかしら。そうね、まずお洋服を見たいわ」
「Ja.《了解》」
シャルロッテは多弁な少女だった。Q・Pは親しくない相手とあまり喋るのが得意な方ではないので、彼女の言葉に頷いているばかりだ。レンドールと過ごしていると、あちらから質問が差し向けられたりして、程よく会話をしていると感じるが、彼女は自由気ままに喋っている。
「あ、ねぇ、カフェで休んでいきましょうよ」
「いいけど」
まだどこの店も見ていないのに、とQ・Pは思った。だが断るほどの理由もないので、二人は明るいテラスの席に座った。天気もいいし、風も気持ちいい。
「Q・Pは何を飲むの?」
「カプチーノ」
「私もそれがいいわ。あと、ここのチョコレートムースケーキが食べたいわ」
「へえ。おいしそうだね」
「Q・Pも食べる? じゃあ二つずつ頼みましょう」
シャルロッテは、ふわふわと笑っている。太陽が燦燦と輝いている。ウェーブの髪が陽光を浴びてゆらゆらと揺れて、髪の色もレンドールと同じなんだ、とQ・Pは思った。Q・Pはあまり美醜や好悪に興味がないが、多分、一般的に、可愛い少女という部類なのだろうとは思う。
他意なく「人形のよう」と感じて、Q・Pは軽く首を振った。人に対してそれは失礼な喩えなのだ。だが、この少女はコレクションドール的な外観に似通っているのである。つまりかつて自分が言われたような「表情の変わらない不気味さ」としての人形という喩えではなく、人形と雰囲気が似た華やかな髪型や顔の造りという意味である。
「シャルロッテ、ここは奢るよ」
「まあ。いいのよ、Q・P。あなたを付き合わせているんだから。私もおこづかいなら貰っているし」
「ボクはキミの叔父さんらしいから」
「まあ! ではリトルな方の叔父さま、ありがとう!」
カフェを出てから服屋を回った。シャルロッテは何着も何着も服を見ていた。買いたいのか、見たいだけなのか、判然としない。そんなに見てどうするのかと訊くと「Q・Pのいるうちに、並んで見たいのよ」ということだった。わからないが、小物はいろいろ買っているようで、小さな袋がぽんぽんとQ・Pの手に渡された。家に持って帰るドーナツを買って、可愛いブローチに目を奪われて、くるくると巡る。
(……疲れる)
シャルロッテは疲れを感じていないかのようにあちこちに行くので、試合のときよりもQ・Pは消耗したように感じた。
以前、ボルクから、彼の姉の話を聞いたことがあって(ボルクは悪いと感じるらしくそれほど家族のことはQ・Pに話さないのだが)、三兄弟の一番上の姉は、男兄弟二人の上に君臨しているとのことだった。買い物に付き合わされて、買った荷物を全部持たされて、と彼が苦労を語るのを聞き、あのボルクが、とQ・Pもとても驚いたものだった。
翻って今、Q・Pは同じ体験を多分している。そういえばルイスも姉には頭が上がらないと言っていただろうか。Q・Pが一緒にいるのは姉ではなく頭の上がらない姪だが……。
「ああ、楽しかったわ! Q・P、付き合ってくれてありがとう。ママにも話しておくわ。ケン叔父さまにもよろしくね」
「次があるならテニスのコーチの方にしてほしいよ」
「そうね。それも楽しそう!」
じゃあね、とQ・Pが持っていた荷物を受け取って、シャルロッテは家に帰っていった。残されたQ・Pの方はと言えば、持ってきたテニス道具を回収して、疲労困憊で帰路に就く。もちろん、試合のように滝のような汗を流す疲労ではないけれども。
Q・Pが家に帰ると、「今日は出かけていたんだね」と、すでに帰ってきていたレンドールに珍しく出迎えられた。
「シャルロッテに付き合ってきたんだ」
「え? シャルロッテに? どうして?」
「お義姉さんに頼まれたから」
「えええっ? Q・P、そんなこと聞かなくていいんだよ。あの人はね、いつも理不尽なだけだから……」
そういえばそんなことをルイスも言っていたような気がする。「姉なんて生き物は、弟にとったらみんな理不尽みたいなもんなんだよ」、そんな感じで。ボルクもそう言うだろうか。
「ええと、その……楽しかった? 同年代の女の子と遊ぶって、キミには珍しいことだったんじゃないかな」
「すごく疲れたよ」
「ハハ、そっか。うん、シャルロッテはいつも元気だからね」
「うん。やっぱりボクはケンといる方がいい」
本当に疲れたと思いながらギュッと抱き着くと、しっかりとレンドールは抱き締め返してくれた。
レンドールと出かけるときは、いつも楽しいということしか浮かんでこないのに。まったく楽しくないとまではQ・Pだって言わないが、疲労が大きく大きく勝る。致し方ない、そもそも出かけるような予定ではなかったのだから。せめてこれから何をしなくてはいけないのか覚悟していればまだ良かったのに。
「本当に、彼女の言うことなんて気にしなくて良かったんだよ。僕からも一言いっておくけれど、一体何を言われたんだい?」
「大したことじゃないよ。大丈夫。次からはちゃんと考えるから。シャルロッテが悪いわけでもないからね」
Q・Pはポケットにしまってある写真のことを頭に浮かべた。これは内緒、にしておいた方が良いかも。レンドールが取り上げるということはないと思うけれど、念のために。
「明日はゆっくりしたい。ケンも予定はないよね?」
「うん。じゃあ、家でゆっくりしようね。たまには映画とか観てもいいかな」
こうして苦労して親戚付き合いを終えたQ・Pは、大きな疲労を代償に手に入れた大好きな夫の写真を、大事に大事に財布に仕舞っておいたのだった。
*
「――それで、今度ボルクがケルン大聖堂に連れて行ってくれるって言って」
「け、ケルン大聖堂?」
「うん。有名な聖堂だよね? 一度は見ておいてもいいとボクも思ってるんだけど」
レンドールはかつての自分のチームの選手たちのプロフィールを知っている。そのなかには不必要ではないか、ややもすると今の時代では問題視されるのではないか、という情報もある。どうもゴシップ記事か何かと勘違いした記者が聞いたことらしいのだが、好みのタイプや、行きたいデートスポットなどの情報だ。
もちろんそういうファン層がいることもレンドールは理解している。Q・Pも、きれいな顔とスタイルだから、彼に贈られる声援の幾ばくかには、そういう熱視線も混ざっていることだろう。そういう子たちが不真面目な態度でいると思うこともないし、人間誰しも憧れの人とそういう仲になってみたいと夢想することくらいあるのだろう。だから構わない。
で、本題に戻ると、レンドールはユルゲン・バリーザヴィチ・ボルクのそうした情報についても知っていた。彼がデートに行きたいとして名を挙げた場所は、そう、何を隠そうケルン大聖堂なのである。
(いや、他意はないんだろう……)
Q・Pは以前、ボルクからケルン大聖堂の写真を見せてもらったことがあると話していた。そうであれば、彼がその場所を訪れたことがないということもボルクは知っているのだろう。レンドールが、ぜひ彼をさまざまな場所に連れて行ってあげたいと願うのは、家族のいない彼があまり外での経験が多くないということをわかっているからで、そして自分が年長者だからではあるが、ボルクが似たことを考えたとしても別に不思議はないわけで。
ついでに言うと聖堂で何か変なアクションを起こされるという心配があるわけでもない。かなり、レンドールの、気持ちの問題である。気持ち的に、かなり、嫌だと思う、ただそれだけ。
「でも、前にケンが行こうって言ってくれたから」
「そういえばそうだったね。全然行けてなくてごめん」
「ううん。だから、ボルクの方は断ったんだ。悪いとは思ったけど。また別のところに連れて行ってくれるって言ってたからいいよね」
「あっ、そうだったんだね……」
(……なんかごめん、ボルク……)
勝手に誤解をして。というか、いろいろな意味で。
しかしながら、ボルクという人は、レンドールから見ても、その精神の安定感と抜群のテニスの腕で、同年代の子たちから魅力的な人物に映っているということがわかるのだ。事実、Q・Pは多分、同年代くらい子たちのなかでは最も彼を頼りにしている。頼りにしているし、一つしか年齢が違わないから、非常に気安い友人としても振舞う。
それが、ちょっと羨ましい。彼の方からすれば、何を言っているんだと怒られるのだろうが。ポジションを変わりたいと思うことはもちろんないけれど、レンドールとQ・Pとの間柄は、永遠にあの日出会った少年とコーチであるので、要するにないものねだりをしているということだ。
「今度の休みに行こうか、Q・P」
「うん」
*
――というような話をたまたま聞いたミハエルは、「二人きりは良くないだろ」と、薄っすら天然鈍感のQ・Pに言ってやった。
「お前は今既婚者なんだから」
『友人と会うだけで?』
「まぁそりゃそうだが、オッサンは気にしねぇの?」
『ミハエル』
「はいはい、監督、いやお前のコーチな、コーチ」
『……気にする?』
本当にまるでわかっていないようなので、心配になってきた。あと純粋にボルクも不憫な気がする。
(いや、そのままの方が気楽なのか……?)
ボルクの恋愛観などはさすがにミハエルも知らないのである。こうして話す分だけQ・Pの方がまだわかる。わかるというか、Q・Pが夫にべた惚れなことがわかるのみだが。
「まぁ、二人きりってのは、避けた方が何でも無難ってことだ」
『そうなんだ。じゃあクニミツも呼んだらいいのかな』
(オイオイオイオイ、火種を増やす気か?)
ナチュラルに登場人物全員の感情が漏れなくグチャグチャになりそうなチョイスができるQ・Pは軍法会議なんかよりよっぽど怖いとミハエルは慄いた。
『それか――ルイス。どっちもいたらいいかな』
その言葉に、ミハエルの脳内で、ついにQ・Pの相関図がボンと爆発した。もしかして自分の所為で大事故が勃発しようとしているんじゃないのかコレって。いや、爆発炎上は阻止したい。今後のためにも。
「待てよ、Q・P。お前、まだ一人忘れてんだろーが」
『誰を?』
「俺に決まってんだろ。こんだけ話してて、ナチュラルにスルーすんな」
『ミハエルが? 来たいの?』
Q・Pは電話の向こうで、きょとーんと首を傾げていそうだった。しかも無表情で。
沈黙が多少あって、わかったよ、とQ・Pは頷いた。
『ミハエルは忙しいんだと思っていたから』
「まぁそりゃあ忙しい。お前と同じだ。俺たちじゃまだボルクみたいに悠々自適に出る試合を選べるとはいかねぇからな」
『ボルクもいつも忙しそうだけどね。それじゃあ試合がないときに会おう』
「ハハッ、ソイツは助かるな。『Quality of Perfect』となんざ、俺は滅多にやり合いたくないからね」
天然超鈍感をかましてくる男だが、テニスの腕前は他を圧倒する。彼はそんな自分について、いずれ神の域に至る、と不遜にも言っているが、本当にその境地に至るのではないか、とミハエルさえ時折感じる。
まぁ、そんなことをあまり言っていると、周囲からはいい顔されないんじゃないかと心配になるが。Q・Pは宗教教育をかなり省いて育てられたらしいので、その不遜さが他の人間よりもわからないのだろう。レンドールもそんな彼の意識を変えようというつもりはなく、本当にテニスの神になってほしいとさえ思っているのかも知れない。
もしも彼がその極みに至ったとして、まるで人ならざる力を得たとしても、電話の向こうでとぼけたことを言っていれば、ああやっぱりコイツも人間なんだなぁ、と安心できるんだろうなと、ミハエルは思った。
*
一回だけって普通なのかな、とQ・Pは電話の向こうに尋ねた。
『何がだ?』
「セックス」
電話の向こうで何かがぶつかったような音が聞こえた。
「セックスっていうか……射精?」
『お前、どんな顔してそれ言うんだ?』
「いつもと変わらないよ。ミハエルもわかってるよね?」
まぁそうだろうな、と電話の向こうでミハエルは頷いているようだった。たしかに、直接的なそういう話は、Q・Pは比較的避ける方ではある。低俗な話題だと思うし、Quality of Perfectっぽくない気がするので。でもどうしても気になるときには尋ねていた。ミハエルに。
『――一発で終わるのが嫌だって話か』
「そう。それともその方が普通?」
『人のことはわかんねぇよ。……どのくらいでヤってんの?』
「普通だよ。普通に、毎晩」
『毎晩ん?』
「試合がなければだけど」
『いや、十分だろ、そりゃ。そりゃ別に、何発もする必要がないってだけじゃないのか。監督だって、もうまぁまぁ歳いってんだろ?』
「まだ39だよ」
『十分いってるだろ』
そんなことはないとQ・Pは思うが、客観的事実に基づく評価を覆すのは、実態を知らなければ難しいだろう。レンドールはまだ十分に若い。体力的にも、精神的にもそうだと思うし、夜の営みに関しても情熱的だ。ただ、Q・Pの身体のことが心配だから、と一回イったら終わりになるだけで。
『……二度も勃たないとか』
「そんなことはないと思うよ。でも、ボクの身体には負担だからっていつも言ってる」
『じゃあそれ以上でも以下でもないだろ。昔だって手を出さないくらい理性的な監督だから、そうしてるってだけで』
「そうなのかな」
『ま、あんまりワガママ言って困らせない方がいいんじゃねぇの?』
「……そうかな……」
『そりゃそうだ。ま、お前が人間らしく悩んでるみたいで良かったよ』
「?」
通話を終えたQ・Pは、ごろんとベッドに寝転がって天井を見た。それから瞼を閉じる。レンドールの真面目で理性的な人柄をQ・Pは誰よりもよく知っているし、彼の言うことは多分もっともなのだろうとも考える。後ろに挿入するとなると、どうしても無理な体勢になってしまう。足を大きく開脚させたり……。後ろからでも膝立ちになると関節には負担が掛かるだろう。
もちろんレンドールは無理な体勢は一切させないし、ベッドの上で、やわらかい布団の上でなければ絶対にシない。それらは全部、Q・Pの身体のことを考えて、Quality of Perfectと呼ばれる選手の一切に支障を来さないためなのである。
わかっているのにどうして聞いたのだろうか。
(困らせてるんだよね、やっぱり)
快楽は欲しい。身体は単純にそう望む。特に、心から愛する人に、愛されて得るそれは、身体だけでなく精神的な充足感も深い。だから、もっと、と思ってしまう。もっと気持ちよくなりたい。もっと欲しい。――もっと求めてほしい。そういう希求だ。でもそれをレンドールが戒めるのは愛あるからで。
ああやっぱり疎ましいことを言ってるんだな、と今さらながらに理解する。やっぱりそうだ。ワガママばかり言う子どもでいてはいけないと願うのなら、とQ・Pは自分を戒めたのだった。
*
いつものように深く奥を突かれて、びくびくと身体が震えた。お腹のなかでも脈動して、ドクンと熱いものが溢れるのを感じる。
「アッ……、ン……♡」
「ハァ……Q・P、大丈夫?」
「ン……♡平気だよ……ケン」
刺さっているものが抜かれて、キュンと後孔が疼いた。まだもっと欲しいとねだっているのに、と思う。思うけれど、名残惜しいけれど……Q・Pはいつものように「もっと♡」と甘い声を出すことなく口を閉ざした。
「Q・P?」
「……もう寝ないといけないよね。おやすみ、ケン」
自分は、そもそも、さほど物分かりのいい子どもではなかっただろうと思う。近付いてくる大人のことは誰も信じられないと突っぱねていたし、コーチがいた方がいいと周囲が考えていることを理解しても、あまり言うことを聞かなかった。
けれど、彼の前では行儀よく、物分かりよくしようと思っていたのだ。こういうところでねだるのも、本当は行儀が悪くて、それにはしたないことなのだろう。わかっている。本当は困らせるのは良くないことだったんだ、と思う。Q・Pはぎゅっと目をつぶった。
「……Q・P?」
「ん……どうかしたの、ケン?」
「もしかして、何か、怒ってる?」
Q・Pは、ぱっちりと目を開けて、ついでに身体も起こした。レンドールは困惑したような顔でこちらを見つめている。
「怒ってないよ。どうして?」
「何だかいつもよりも素っ気ないみたいだったから……」
Q・Pはぱちぱちとまばたきをした。
「そういうわけじゃない……のかな……?」
少し考えて、Q・Pはすり、とレンドールの胸に顔を埋めた。レンドールは少しほっとしたように、Q・Pの身体を抱き締めて、頭を撫でる。
「あんまり僕がいつもだめだって言うから、もしかしたら怒らせてしまったのかな、って」
「怒っていないよ。ボクの方こそ、いつもケンが煩わしいかなって思っただけで」
「そういうことは思ってないよ。まぁ、キミのお願いを聞いてあげるわけにはいかないけど」
そういうのも睦言みたいなものなのかなって、と、レンドールは笑った。
「じゃあ、もう一回しよう、ケン……♡」
「うん。それはダメだね」
「お願い、ケン……♡」
「さ、寝ようね、Q・P」
何だか高度な言葉遊びをしているのでは、とQ・Pは思った。高次元の、自分たちにしか理解できないような睦み事……。
ともあれレンドールが煩わしいと思っていないのなら、需要と供給が一致しているので、今のままでいいのだろう。Q・Pは甘くおねだりをして、レンドールは頭を撫でながらそれを否定する。それでいいのだ。やっぱりちょっと変な営みな気もするが。
(もしかしたら100回に1回は成功するかも知れないし)
絶対にそうはならない。そういうところを愛しているのだけれど、それを夢想するのも悪くはないとQ・Pは抱き締められながら思った。
*
それはU-17ワールドカップに向けた練習中の一コマである。
「ミハエルはどうやって身長を伸ばしたの?」
「どうやってってこたねぇだろ、メシ食ってりゃ自然と伸びるってだけで」
それはそういう嘘なのではないか、とQ・Pは疑っているような目でミハエルをじっと見た。実際ミハエルは人を食った感じで、後輩、特に中学生くらいの素直に信じる年齢の子を見ると、軽い嘘ばかり言っている。そのうちイソップ童話みたいになるんじゃないの、とはQ・Pの談。
が、ミハエルはQ・Pにはあまりそういう嘘を吐かない。言ってもすぐにバレる、あんまり信用してもらえそうにないから言いたくはない。余談だが当然ボルクにはそんなこと全然言わない。手塚にももう言っていない。
「食事量が少ないんじゃねぇの?」
「普通に食べてる。必要なカロリーも栄養もちゃんと取ってる」
「フーン……」
必要なカロリーと栄養、なんて言い方が、全然違うんだよな、とミハエルは思った。
(食うってのはそういうことじゃないだろ)
これは嘘ではない。Q・Pは料理を作るのが上手いわりに、それほど量は食べていないようだとミハエルは感じていた。ジークフリートなんかは小さくてもよく食べるので、多分あと数年もすればデカくなって、Q・Pなんかは軽く追い抜かされるんじゃないのか、と思っていた。
思い立ってQ・Pの脇に腕を入れてひょいと持ち上げると、Q・Pからギョッとした視線が――向けられることはなかった。いつもと変わらない表情がじっとミハエルを見ている。
「……何?」
「いや軽いだろ。筋肉は付いてるってのにこんくらいなんじゃ、やっぱ食べ足りてないとしか……」
――と、鋭い視線が矢のように飛んできた気がしてミハエルは背中がゾクッとした。
ミハエルの行動に特に他意はない。多分軽いんだろうなと思って確かめただけだ。後にジークフリートから「Q・Pによくあんなことできるよな、ミハエル」と、尊敬と畏怖を込めたまなざしとともに言われたのだが、ミハエルとしては、別にQ・Pの反応自体は何ら怖くなかった。こう見えてQ・Pのことは結構わかっている。要するに彼は直情的に怒ったりなんてしないのだ。激昂するQ・Pなどはいない。それに多少のスキンシップもイケる。
Q・Pの身長体重の正確な値なんてミハエルは当然知らないし、見た目からこのくらいだろとは予測するが、それを確かめるために持ち上げた。ミハエルとしては、冗談を言っても真顔しか返ってこないあの表情筋が固まってしまっている『Quality of Perfect』を日頃から驚かせてやりたいと思っているので、ちょっとは驚きそうな手段を選んでみたというところだ。結果的には、いつもの真顔で見られるだけで作戦は何ら奏功しなかったただそれだけなのだが、怖いお兄さんとか、そういう感じの視線がなんと三つも突き刺さったものだから、虎の尾を踏んで、驚いたのはむしろ自分の方だったのである。
慌ててミハエルが腕の力を緩めると、Q・Pの靴はもう一度地面に着地した。
「ちょっと怖いよ、ミハエル。持ち上げても構わないけど、ちゃんと予告してからやって」
「いや、悪かった。驚かせようとしただけなんだが……本当に、悪かった」
「別にいいけど?」
生真面目な主将と生真面目な異国の後輩と生真面目な監督全員から視線を浴びるとは思っていなかったのだ。本人の平淡で冷たいまなざしよりも怖い。何らかの恐怖体験だ。
当本人は全然その視線はわかっていないようで、「ジークフリートとのダブルスはやりづらくない?」とマイペースにミハエルに訊くばかりだった。
「身長差がかなりあるよね」
「ま、そうだが、俺が後ろで構えてて、ジークがちょこまか動き回るからちょうどいいだろ。ダンクマールとベルティだって結構違うんだから」
「たしかにそうかも知れないね。ボクはクニミツとやったときに、身長が同じくらいでやりやすいと思ったけど」
「天才同士みたいなのはそれでいいんだろ。どっちもコートを自由に駆け回れるんだし」
普通の会話に戻ったためか鋭い視線が消えたので、ミハエルはホッとした。
「つってもオレは昔からデカい方だったんだけどな」
「遺伝? じゃあさっきのは嘘だったの?」
「Q・Pが軽いのはホントだろ」
「ボクもクニミツほどじゃない」
「クニミツはまだ筋肉が足りてねぇだけだろ。つか中坊と競ってどうすんだ?」
Q・Pはそう言うとちょっと黙ったので、小さくて、それから意外と可愛げがある子なんだよなとミハエルは思ったのだった。
*
Q・Pが自分に宛がわれた部屋で書き物をしているのを見かけて、読書を終えて少し休もうとしていたレンドールは声を掛けた。
「Q・P、入っても平気かい?」
「大丈夫だよ。本はもういいの?」
「少し休憩。キミは――手紙を?」
彼の手元には白い便せんが置いてある。何だかレトロだ。Q・Pは現代の子らしくデジタルネイティブ。スマホでのやりとりが当然といった世代だ。レンドールは、それほど使う方ではないが、若い子はTikTokのDMでやりとりをすることも珍しくないとか? レンドールはまったく詳しくない。Facebookなら知ってるが、そういえば、それもあまり使っていない。
「珍しいなぁ。ルイスにでも書いているの?」
「ううん。クニミツのお母さんに」
「クニミツの、お母さん……?」
どういうことだろうかとレンドールは思った。
異国よりドイツへ単身で留学してきた手塚国光。彼の母親とは、彼の故郷日本に行った際に顔を合わせたことがある。彼の親御さんはレンドールにもご挨拶をと言ってくれたが、レンドールは手塚を指導しているわけではないし、代表チームにいたのもジークムント製薬が背後にいたからで、彼との直接的な関係はないに等しいので辞退した。そのようなわけで、会って言葉を交わしたことがある、というだけだ。
そのときに傍にいたQ・Pも、言葉を交わしている。何でも、彼の母親がドイツにいる息子宛に送る日本のアイテムのなかのいくつかがQ・Pの手に行き渡っていたらしいのだ。そのうちのひとつ、ラミーと呼ばれるチョコレートについては、レンドールもよく知っていた。それでQ・Pがお礼を言っていたことを記憶している。
「よくお菓子をボクにくれるから、お礼状みたいなものだよ」
「そ、それってクニミツは知ってるの……?」
「クニミツに手渡して、日本に送る荷物に入れてもらってるから」
「あ、そうなんだね」
「最初にお礼状を送ってもいい? って聞いたら、喜ぶと思うって言ってたから、たまに書いてるよ。まだ日本語で書くのは難しいからイングリッシュだけど、それくらいなら読めるって言ってたからね」
たしかに便せんには美しい文字でイングリッシュが書かれている。Q・Pは内容を見られることを気にしていないようだった。お菓子をいつもありがとう、とか、手塚のことが書かれている。
Q・Pは手塚のことを気に入っている、とレンドールはいつも思う。家族と過ごしたことのないQ・Pが、学校でも超然としすぎて距離ができている彼にとっては、弟のような後輩なのだろう、手塚は。
(でもお母さんと仲良くなるものかなぁ?)
レンドールは自分の親ももっとこういうやりとりをするように言った方がいいのだろうかとちょっと思った。異国にいる人に彼の母みたいな存在が取られてしまうのでは?
*
「そうかい。わかったよ。伝言ありがとう、ボルク。プープケ氏にもよろしく」
『いえ、こちらこそ。――そういえば、Q・Pの調子はどうですか?』
「うん? 敵情視察かな? 試合を見ていると思うけど、調子はかなりいいよ。Q・Pは臆することがないからね。プロになってからの試合でも、戦績が良くて……」
電話を代わってあげようかなと思ったが、Q・Pは今キッチンにいる。調理を始めたのは5分前だから、あと25分はできれば邪魔をしないであげたい。
必要があればきっと彼もまた掛け直すことだろう。レンドールはふと、彼の友人に気になっていたことを尋ねてみようという気持ちになった。
「そういえば、ボルクはクニミツの母親を知ってるかい?」
『何の話ですか』
「えーっと、何の話でも別にないんだけど……」
『クニミツから家族の話を聞いたことならばあります』
「あ、そっか。何だかね、Q・Pは、クニミツのお母さんから差し入れを貰っているみたいで、お礼状まで書いてるらしいんだ」
『その話であれば知っています。Q・Pより聞いたことがありますから』
「あっ……そうなんだね」
聞いたことがないんですか、と言われて、レンドールは頬を掻いた。お菓子をもらっているという話を聞いたこと自体はある。チョコレートのときに。いや、言われてみればあのときQ・Pは酔っていたから、それですら、彼の意志で話してくれたことではない。
「聞いたことない、かな」
『そうなんですね。……傍にいても意外と知らないんですか』
それはつまりQ・Pのことを、だろうか。はっきりと言われてレンドールは、やや傷ついた。
ボルクとQ・Pは仲の良い友人同士だ。Q・Pはよくボルクと電話をしているようだし、外で食事もしていると言っていた。手塚が気に入りの後輩なら、ボルクは慕う兄のような先輩というところだろうか。Q・Pのボルクへの発言も、とても親しい友人のそれらしいとレンドールは思っていた。だから、いろいろと聞いているのだろうか。
通話を終えて、レンドールは考え込んでしまった。Q・Pは素晴らしいテニスの腕前を持つ凛々しく美しい少年で、料理上手で、熱心で真面目な子。自分を心から愛してくれる妻だ。
(でもそれ以外に詳しく知らないと言えば、そうなのかも)
結婚前には一年ほど付き合っていたけれど、完璧に過ごす彼との恋人生活はとっても楽しかった、ということ以外、それほど詳しくは知らないような……。というかいつもテニスの話しかしていない。テニスのことしか全然聞いてない。それが問題だったのだ。好きな食べ物は? 好きなテレビは? 好きな映画の種類は?
苦手なこと。許せないこと。嫌いなもの。全部知っておきたい。
「ケン、ご飯ができたよ。今日はシュバイネハクセにKartoffelpüree」
「いつもありがとう、Q・P」
「これくらい当然だよ。食べよう」
(料理を作るのは多分好き……だから)
Q・Pの作ってくれる料理はいつも完璧だ。本人も完璧な料理だと自負している。彼が喜んで料理を用意してくれることをレンドールはわかっているつもりだが、さっき聞いた話のように、実はただよくわかっていないだけなのではないだろうか、とふと不安が過る。
年齢差を考慮して、レンドールも不必要なことはあまりQ・Pに言わない。おじさんの些細な話など若者には鬱陶しいだけなのだとわきまえている。逆に、彼もちっぽけなことだと思って言わないということがあったりするのではないか。
「Q・P……その、キミが好きなものって何かな?」
「え? テニスだけど」
「いや、そういうことじゃなくて」
(いやそうだったんだ、Q・Pは)
テニスだけをしてきた。それは事実。しかし彼は、その選択を自主的にしてきたのだ。他の子よりも強くなるために、誰よりも高く空を飛ぶために。それは彼が抱くべき場所にいたから抱いた願いだけれど、決してそれだけではない。彼はテニスを心から好きだと思ってやっていた。そういう人だからこそ、神の領域に手が届くのだと思う。
Q・Pはきょとんとしたように首を傾げた。
「ヴェルタースオリジナル」
「あ、ああ、そう言ってたもんね、好きな食べ物は」
「ホッとする味で、舐めてると昔のことが思い出せるから好きだよ」
レンドールはそんな健気な言葉に思わずキュンとしたが、そういう話ではない。
「好みの味付けとか」
「特にないよ。食事は栄養バランスを考えて摂るだけで」
「あ、そうだ、甘いものは?」
「……別に、そんなに食べてばかりいないよね」
でも甘いものが好きなんだろうなとレンドールは気付いている。Q・Pはなぜかあまり認めないが、アイスクリームも、ケーキも、クッキーも、チョコレートも、彼は好んで食べているのをわかっていた。だから手塚の母親も送ってくれるということらしいし。
「好きなテレビの番組は?」
「テレビは見ないからわからないよ」
「ああ、そういえば部屋に置いてなかったんだっけ」
「うん。寮にはテレビは置いてなかったから。ルイスは持ってたけど」
「ああ……持ち込み可能なんだね」
「みんな持ち込んでたみたい。ボクは興味ないからルイスに誘われても見なかったよ」
GTAの教育は、厳格というか、基本的には育てている選手たちには、学園でテニス以外のことをさせたくないらしい。
(スマホもタブレットも制限が掛かってるって言ってたし)
特に娯楽は厳しく制限されているようだった。そんな息の詰まりそうな環境に置いても子どもは反発するだけなのではないかと思う。だがQ・Pはと言えば、ゲームも漫画も何も興味がないようなので、全然気にしていない。
(多分Q・P以外の子は、親がテレビとかゲームとかやらせてくれるんだろうけど)
そういうなかで育っていても、音楽だけは自由に聞くことができた。だから彼はクラシック音楽を好むようになったのだろう。と言っても、音楽のジャンルはクラシックに限られていなかったようなので、古風な音楽の趣味は純粋なQ・Pの感性ということになる。ロックを聞くQ・Pは全然イメージにない。
「何かあったの、ケン?」
「えっ、いや、別に」
「そう?」
Q・Pはじっとレンドールを見つめた。レンドールは考えに夢中で、せっかく彼が作ってくれた料理を味わえてすらいないことに気が付く。そして、この聡い少年が、レンドールが妙な言動をしたことに強い違和感を覚えているのだろうということも認識した。
ぱちりと白く長い睫毛が揺れるのを見て、レンドールは誤魔化すべきことでなかったと反省する。彼を不安な気持ちにさせないことが、二人の生活で一番重要なことなのだ。
「……ごめん。キミのこと、僕はまだまだよく知らないんだなって思ってね」
「? ボクもケンのことそこまで知ってるわけじゃないと思うよ。でも、これから二人で暮らしていけばいろいろと知っていけるよね? 問題ないよ」
「そうだね。うん、キミの言うとおりだ、青い鳥」
レンドールの知るQ・Pは、素晴らしいテニスをして、料理が上手で、音楽が好きで、真面目な子。それ以外にもまだ知らないことはたくさんあるだろうけれど、いろいろなことを知っていくたびに、またきっと、愛が深まっていくのだろう。むしろそれは素晴らしいことだ。
もう一度レンドールは料理を口に運んで、飲み込んだ。
「今日のシュバイネハクセも絶品だね、Q・P!」
*
学園の経営方針について、と聞くと、「ぼくよりも彼女に言った方がいいのでは?」と主任は首を傾げた。
「ええ、それは重々承知しています。そして、なったばかりの理事如きが進言することでもないとは思いますが」
「そんなことないですよ。うん。ミスター、あなたの立場は他の理事と変わりません。ぼくよりもずっと上の立場ですし」
「それは……」
ハハハ、と笑って言われても、返す言葉が見付からない。一応、学園の体制上、理事の立場はコーチである彼とは違う。役員という立場でも、スクールのオーナーのように、コーチにとって直接の上司ということではないのだが、上層部にいるという認識であれば間違ってはいない。
が、実態は違うだろう。学園にとってQ・Pは最も重要な存在で、その彼を支えるチームの主任というのは、かなり特別な役職だ。もちろん専任のコーチもそうではあるが。
「特別な話ではないのですが、学生に規制が多いのが気に掛かって」
「Q・Pくんのことですね」
ハッキリと言われてレンドールは肩を竦めるしかなかった。
「コホン。彼を筆頭に、という話です。スクールの学生は寮に入るのが規則でしょう? 寮生の規則がかなり厳しいように見えるんです。ネットの制限、それから部屋にテレビは置いていないし、雑誌やゲームも不可だと聞きましたが」
「雑誌は今は解禁してますね。まぁ、おうちで皆さん読んでるので今さらではありますが」
「ですが」
「インターネットの制限は妥当ですよ。一部彼女の私怨もあることにはありますが、若年層のネット依存を初めとしたトラブルが昨今問題となっているのはご理解されているでしょう? 情報の取捨選択がまだできていない子どもに規制をするのは、彼らを預かる学園側としては当然の措置かと思います。といってもWi-Fiの制限だけですから、影響がない子も多いのでは?」
(それはたしかにそうだ)
親のように丁寧にひとつひとつの善悪をすべての子どもに教えることが困難な状態で、有害サイトをフィルタリングすべきと考えるのは妥当なことだろう。そういうことができるなら代表合宿等でもそうすべきとさえ言える。
「ですが娯楽をあまり制限するのは、やはり若い子にとっては厳しいのではないですか? モチベーションを維持し続けるのも難しいはずで……」
「ミスター。この学園を理解されているのでしょう? テレビ、ゲーム、スマホの規制、たしかにありますが我々は寮の部屋をすべて監視しているわけではありません。それはプライベートの侵害。寮にまでいる学生はみな、高額な授業料とコーチング料、それから寮の費用をすべて支払っています。望むならテレビも最新のゲーム機も家で与えられているはず。そして我々は当然ご自宅を監視しているわけではない」
「……つまり、有名無実であると」
「と、までは、ぼくは言いませんが、少なくとも寮生皆さんそのようなものですよ。いずれにしても皆さん理解しているでしょう? テレビばかりを見ていて良いのか、ゲームばかりしていて良いのか……ええ、その結論が『Quality of Perfect』なのです」
「ですが!」
「たしかに彼女は成果を注ぐ『最高傑作』にはテニス以外の何事にも触れさせたくないようで何も与えませんでしたね。ですが、彼に娯楽が必要ないというのは、彼自身の考えと合致するでしょう? 彼が好きなのはテニスで、そして音楽はクラシックが好きなのでしたね? ぼくも知っています。彼は娯楽番組も漫画もゲームもいらない子です」
「……仰るとおりですが、僕は、彼に、何かを規制されているから『しない』のではなく、何でもできるけれどしたいと思わないのなら『しない』と、あってほしかったんです」
「それは生き方の問題ですよね?」
「ええ、そのとおりです」
「ミスターが彼を慮る気持ちは本当に素晴らしいと思います」
その声にまるで温度はなかった。レンドールは黙る。彼は、彼自身がそうでありたいと望むよりも前から、すべてを制限されていた。レンドールは彼のテニス選手としての素質を見出していたけれど、彼がそのことに束縛されて生きるのを望んでいるわけではない。
「ミスターはとても優しいですが、以前にも言ったとおりです。過酷な世界なのですから。彼のことは、ひとつの成功例と捉えるべきでは?」
「そういう言い方は好みません」
「――ミスターもご経験があることでしょう? 優勝できなかったのはなぜなのか、と、問われたご経験は?」
レンドールは思わず息を飲んだ。
「不足していたのは何だとお考えになりましたか? 自らの手腕? それとも単なる運否天賦? 選手たちが、」
「主任、いつまでボクのコーチを拘束してるつもり?」
割って入ってきた声に、驚いたのはもちろんレンドールだけではない。Q・Pはじっと主任を見ている。
「キミは……もしかするとシックスセンスとか働くのかな、Q・Pくん?」
「何を言ってるの? コーチが学園に来ているならボクの練習に付き合うのは当然だよね。役員室で用事があるっていうから、待ってただけで」
「そう、だね。待たせてしまってごめんね、Q・P」
「早く行こう」
「ぼくのことはお構いなく。もう行きますから。ではまたお会いしましょう、ミスター・レンドールとQ・Pくん」
ひらひらと手を振って主任は部屋を出て行った。
「聞いていたのかな?」
「U-17代表監督の悪口を言おうとしていたことなら」
「気にしなくていいよ。実は言われ慣れてるから」
レンドールは冗談を言おうとしたつもりだったのだが、Q・Pの表情は硬かった。それは単に表情変化がないということではない。彼はそういう悪意を言葉にして攻撃する人が特に嫌いなのだ。
「ボクも、何も気にしたことはないよ」
「やっぱり聞いていたんだね」
「主任はドライだから。でもボクも同じようなものだし、だから別に気にしたことなんてなかったんだよ」
「キミがドライだなんて、まさか。今も僕を助けてくれたのに?」
ありがとう、とレンドールはQ・Pの頭を撫でた。言われたことは事実だし、言われ慣れているのも事実だけれど、言い返せないことについてを言われ続けるのは、気分が悪いことだ。
(本当に優しい子なんだ、Q・Pは)
そんなこと言うのはレンドールだけだとQ・Pはいつも言うけれども。おかげで気分が下降せずに済んだ。どうでもいい相手からの言葉より、大切に想う人からの優しさの方が心に強く響くとレンドールは思う。
「でも、キミの練習を見るという話はしていなかったよね。僕に会いに来てくれたの?」
「もちろん。いるのを知ってたから、会いに来たんだよ」
「そうだったんだね。じゃあせっかくだから、練習を見て行こうかな。普通にスーツで来てしまったけど、この格好で大丈夫?」
「大丈夫だよ。行こう、コーチ」
たたっとQ・Pは駆け出す。
「ボクはテニスをやれたらそれで良かった。その環境を守ってくれたのはケンだよ」
「そうなのかも知れないね」
「娯楽なんて、楽しいことなんて別にいらなかった。そんなもの、テニスの上達に必要なものじゃないからって思ってた。淋しいと思ったことなんてない」
「Q・P……」
「でも、ケンがボクにいろいろなことを教えてくれて、楽しいことを知って、これはテニスに、ボクが強くなるために必要はないことかも知れないけど、多分、人にとって必要なことなんだって思ったんだ。ボクは、人形ではないから……」
「うん、そうだね。キミは楽しいことをもっとたくさん知ってもいいんだよ」
振り向いたQ・Pは少し笑顔を浮かべてくれたようだった。他の人が見たらわからないと言ってしまうかも知れない些細な変化だけれど。
「自分が好きなものを知って、欲しいものを知って、やりたいことを知って……そうして選んでいっていいんだ。キミはどうしたってテニスを蔑ろにすることだけはないからね。キミの世界はもっと広いんだよ、Q・P……青い鳥」
Q・Pといろいろな人 の話です!
まじで趣味で書いてることが多すぎてそのうち叱られるんじゃないかって気がしてきました。