ミルクティーの女の子

「ねぇ陣ちゃん、私、陣ちゃんと一緒に警察官になろうと思うの」
 萩原研子がそう言い出したのは、高校2年の初夏のことだった。
「お父さんの工場、倒産しちゃって」
「は、はぁ? マジで言ってるの、それ?」
 そんなの初めて聞いたんだけど、と松田が言うと、陣ちゃんに初めて言ったの、と萩原はスカートを初夏の風にはためかせて言った。秘め事を言うみたいにして。実際、秘密の暴露と言えばそうだろうが、そういう、何だか甘い響きの話でも何でもない。
 萩原の父親は経営者だった。と言っても、町工場の工場長とでもいう立場にある人で、それでも羽振りは良さそうだったし、たしかに大企業の役員の娘とか、社長ご令嬢とかとは違うのだろうが、出会ってこの方、松田は彼女のことをお嬢様の一種だと思っていた。どこか浮世離れしたような人当たりの良さも、ぽわんとした育ちの良さも、バカみたいにお人好しなところも、全部そういう環境がそうさせたのだと思っていたのだ。
 近所でもそれなりに名前を知られた萩原工業。経営が危ういという話を聞いたことはない。小さな工場なんかは潰れていく一方なんだって、と、不景気の話題のひとつに母や父がしていたのを聞いたことがあるくらいだ。
「それで……?」
「うーんそれでね、大学くらいは何とかなりそうなんだけど、私って、会計士か税理士を目指してたじゃない?」
「えっそうだったっけ……アンタ、家事手伝いでもしていいとこのボンボンのお嫁さんになるのかと思ってたわ」
「もう、陣ちゃん、ちゃんと私の話聞いてたの? 工場はお兄ちゃんが継ぐ予定だったし、私は外から経営の手伝いをした方がいいんじゃないかってお父さんに言われてるから、公認会計士になるつもりだって言ったじゃないの。ダメだったら、税理士かも知れないけど」
「あぁ、何だか言ってたわね、そんなこと……」
 ぽわんとしていて、惚れっぽくて、きゃるんとしていて、ミルクティーの色をした髪で、カフェでもいつもミルクティーを頼む、このふわふわの巻き髪の美少女は、見た目よりも相当賢い。賢いくせに、男の自慢話だってにこにこと楽しそうに何にも知らなそうに聞いているから、出会った頃から今まで、驚くほどに異性からモテていた。付き合って、別れて、そんなことばっかりをいつも繰り返している。
「でも、そういう目標がなくなっちゃったから」
「別に会計士だか税理士だかでもいいんじゃないの? そういうのって別にアンタの会社ありきの仕事じゃないでしょ」
「そうなんだけど、やっぱり個人経営の事務所は浮き沈みが激しくて心配だなぁって考えてたの。アテにしてた安定したお客さんもいなくなっちゃったんだもの」
 ふわふわミルクティー髪の美少女から出てくるドが付くほどに堅実な言葉に松田は思わずため息を漏らした。似合わない。あんなに、マザーグースの謳う「お砂糖、スパイス、素敵な何か」でしか作られていなさそうなのに。
「だから公務員になろうと思って。それでね、陣ちゃんが、警察官になるって言ってたから、私も陣ちゃんと警察官になるって決めたの」
「待ちなさい。たしかに公務員は堅実な商売よ。でも、だからって、アンタが警察官になる必要があるの?」
「だって陣ちゃんが警察官って言ってたから」
「私はいいのよ。知ってるでしょ、私、合気道で段も持ってるんだから」
「そうだけど」
 アンタは市役所の受付椅子の前でにこにこしてるのが似合うわよ、と言いかけて言わなかった。それは彼女にとって侮辱になるのかも知れないと思ったのだ。けれど侮っているわけでもなんでもなくて、ただ、彼女が危険な場所に出ることを松田が深く心配しているというだけだ。男の力を持っていたって、凶器を持つ犯人は危険な存在なのに。お砂糖菓子のような非力な美少女をそんな場所に送り込みたいだなんて誰が思うだろうか。
「でもね、私、陣ちゃんが警察官を目指すって聞いて、素敵だなって思ったんだ。だって、それって、困っている人に手を差し伸べられる仕事でしょ?」
 それに一緒だったら怖くないし、と萩原は松田の手をぎゅっと握った。
「ひとりきりで遠くに行かなくて済むと、思わない?」
 2人でいたら怖くない。萩原の言葉にはどこか、自分と似た響きがあるように感じられた。その道は危ないと自分が感じて、彼女が同じものを少しも感じていないとは言い切れないだろう。心配だ。だから、傍にいたい。
 それらを不純な動機だとも松田には言えそうにはなかった。親に掛けられた冤罪の恨みをとりあえず何でもいいから一発殴って晴らしてやるかとか、そんなことを思っただけなのだから。
「……わかったわよ。でもいい? しばらく休日はアンタもうちの道場に連れて行って鍛えてやるから」
「えぇー、何で?」
「何でじゃないわよ! 警察官になるんだったら、武道が必要になるのはわかってるんでしょ? 私が鍛えて、それでも全ッ然ダメそうだったら、諦めなさい」
「はぁい」
 ふわふわっと萩原は笑って頷いた。危険だけど、心配だけど、ぶん投げまくって思い知ればこの子も諦めるかも知れないわね、と松田は思った。
 それから数カ月。賢いだけでなく、そもそもかなり運動神経がいい萩原は、松田の心配と思惑を余所に、道場に何年か通う子とも互角に戦える程度には会得した。
「陣ちゃんの教え方がよかったからだよ」
 と、笑って。

 ねぇ陣ちゃん大学どこ行きたい? と大学のパンフレットをベッドの上に散らかしながら萩原は尋ねたのはその出来事のすぐ後で、2人で大学を決めて、家からはちょっとばかり遠いという理由で、実家を出て暮らすことに決めた。
「陣ちゃん、住むならどこがいい?」
「大学の近くの沿線ならどこでもいいんじゃないの? でもそうね、駅から近いところで、うるさくないところで、あぁ近くにオシャレなカフェとかあって、駅ビルで洋服が見られて、それからもちろんオートロック必須。それくらいじゃない?」
「うーん……陣ちゃんは条件が多いなぁ。駅ビルがある大きな駅で、それに駅が近いと家賃も高くなっちゃう」
 仕送りしてもらえると萩原は言っていたし、2人で折半するのなら、そこそこの値段がしても大丈夫なはずだ。家賃が心配ならいっそワンルームでもいいか、と松田は思ってから、いやいや彼女にも自分にもひとりの空間はあった方がいい、と思い直す。萩原だってさすがに、そこまでべったりとくっついていたいはずはない。今現在、ソファに座りべったりとくっついてスマホを見ているとしてもだ。
「ここはどう? 駅から20分」
「遠すぎるわね。駅から3分じゃないと」
「駅からまっすぐ戻ってできたばっかりのカップラーメンが食べたいの? でも陣ちゃん、駅からあんまり近いと、電車がうるさいよ? 前に付き合ってた大学生のおうちが高架下だったんだけど、電車が通るたびに地鳴りみたいな音がするって言ってたから」
「う、それはちょっと……嫌ね」
 でしょう? と萩原は首を傾げた。
「駅から遠かったら、たしかに少しは歩くけど、静かだし、きっと広いし、家賃も安いと思うんだけど」
「ダメよ、ダメ。アンタ、ウチまで歩くって、アンタみたいなのが夜道歩いてたらどうなると思ってんのよ。ダメに決まってるわ」
「私だって夜に道を歩いたりはするんだよ?」
 萩原はとびきりの美少女だ。高校で時代錯誤にもやっていたミスコンで、勝手に選ばれて勝手にステージに上げられたのを、松田が引き摺って連れ帰ったなんてこともある。今でさえ、『萩原さんを影から見守り隊』とかいうキモい連中が高校には湧いていて、あぁやっぱり女子高にさせるべきだったと嘆いて、大学は絶対女子大にすると決めた。
 そういう変な男どもから萩原を守るのは自分の使命だと松田は思っている。あの春の日に、ミルクティーの色の髪を靡かせている少女を見た時に。少女がこちらに手を差し伸べて「仲良くしてね、陣ちゃん」と微笑んでくれた時に。守ると決めたのだ。
 そして、今回、家を出るにあたり、親御さんにもちゃんと「安心してください、必ず萩は私が守りますので」と頭を下げてきた。隣で彼女は「陣ちゃんてば心配性ねぇ」と笑っていた。
「でもここ、すっごく素敵なんだけどな。部屋もちゃあんとふたつあるし、それに、中古マンションだけど、外装もリノベーションされて可愛くなってるし」
「う、たしかにそうね」
「でしょう? 建物は大規模修繕工事も済んでるし、5階だけどエレベーターもあるし、少し歩けばバス停もあって、近くにコンビニもスーパーもあるよ? 最寄り駅はふたつあって、片方の駅ビルには陣ちゃんの好きそうなファッションブランドもあるし」
「あぁもう、わかったわよ。ってかアンタ、何でもちゃんと見てるわよね」
 にこにこと萩原は笑った。
「とりあえず連絡して見てみましょうか。駅から遠いのは……ちょっと考えるわ」
 そして内見をしてみたところ、駅から遠いということを除いては、物件に瑕疵はなく、周辺も静かで環境もよく、部屋も使い勝手がよさそうだった。ちゃんとメジャーまで準備して、テキパキと確認した萩原は、「ね、やっぱりここにしようよ」と笑った。
「鍵もディンプルキーだし、キッチンもとっても使いやすそう。インターホンがあって、ベランダは道路に面してないから視線を気にしなくていいし、近所の人と話してみたらみんなとっても優しい人だったし、来るまでに街灯も防犯カメラもたくさんあったよね?」
「アンタほんとよく見てるわね……」
 これ以上ない好物件だ、と思う。もちろん住んでみれば様々な問題も出てくるものかも知れないが。
(でも完璧な家なんてどこにも存在しないし、多分ここよりいい条件を探すのは難しい……)
「はぁそうね。前向きに考えてみましょうか」
「やったぁ!」
 萩原はぎゅっと松田の腕に抱き着いた。
 そして、いろいろと検討した結果、2人が住む家はやはりそこに決まったのだ。駅から20分(と物件情報には書いてあったが実際には30分ほど歩く)という部分以外は文句がなく、けれどその一線を越えることについて松田は最後まで、極めて慎重だった。家までの道のりは、商店街をまず通り、たしかに街灯が照らしていて、真っ暗にはならない。女子がひとりで歩いたとして、コンビニや周囲の家など、逃げ場も確保できそうだ。だがやはり、萩原ひとりで家まで歩かせるのはどうしても不安が残ると松田は考えに考えた。
「ただし、アンタが駅から帰る時には必ず私を呼ぶこと」
 やはり、ひとりで歩かせないに越したことはないという結論に達した。道のりの危険性は低いので、自分も出ていれば、駅で落ち合うし、家にいたって片道30分の道のりは手間でないわけではないが、別れて過ごすのなんてどうせ休日くらいのことだ。駅に出てご飯を食べて帰るのだって悪くはない。
「えぇっ……、でも」
「いいわね? 守れないなら一緒に住めないわよ。約束しなさい、萩」
「……うん」
 そう約束して、2人は鍵を1本ずつ分け合った。

 帰りに迎えに行くという話をすると、怪訝な顔をされることが多い。それに、面倒なんじゃないのかとよく言われる。しかし、松田は案外そのお迎えが嫌いではなかった。実家にいるときに比べて運動量は減っているので30分の道のりでもいい運動くらいに感じられるし、家でのうのうと待つより心配がなくていいし、迎えのついでに服もアクセも化粧品も見られて、ついでに足りない食材も買い足せる。
(あ、このネイル、萩に似合いそう)
 色が白くてブルーベース肌の彼女に似合いそうなペールブルーでラメの入ったネイルを見かけて、衝動的に松田はそれを購入した。いつもネイルが欠ける度に「陣ちゃん塗って」と萩原は甘えるように言って長い指を伸ばして見せる。自分でできないわけでもないが、松田は器用で細かい作業が得意なので、同居するようになると萩原はすぐにそれを頼りにするようになった。最近は、単に塗るだけじゃ芸がないからと、ネイル用の筆やラメパウダーなんかも松田は揃え始めていて、休日には萩原限定でネイルサロンをやっている。
(この駅ビルってスタバもあるし、あの子の好きなタピオカミルクティーの店もあるし、いい場所よね)
 今のフラペチーノって何だったかしら、と自分では飲まないのにスマホで検索してみたりした。好きそうなフレーバーだったら買って帰ってもいいかも知れない。
 松田には萩原の他に友人らしい友人はいない。喋る相手がまるでいないという意味ではないが、親しい存在という意味では他にいないだろう。萩原も、付き合う男は数多いるらしいが、女友達という意味では松田と大差はない。2人でばかりいるので、他に友人を作る術ももう忘れてしまったかも知れないとさえ思う。
「にしても、遅いわね、あの子」
 LINEに『あとちょっとで帰るね』と寄越してからもう30分ほど音沙汰がない。『あとちょっとってどんくらいよ』と1分で返信したのに何も返ってこなくなった。萩原の返事が遅いのはいつものことで、しかもそもそもの連絡がのんびり来るので、先日は駅に着いてから『今着いたよ、陣ちゃん』と電話をしてきて、『動かずそこで待ってなさい』と留め置く羽目になった。萩原はそこでゆったりと大好きなタピオカミルクティーを飲んで待っていたのでいいのだけれど、待つことになるんだから早く連絡しなさい、電車に乗る前に、と言った効果はとりあえずあったのだろうと思う。
 改札前で張っていたくとも改札は複数箇所あるし、普段駅ビル方面の出口から帰るのでその付近にいるが、松田はヤキモキしていた。萩原は時間の間隔がまるで人より緩いのだ。と言っても今日は最近できた彼氏とデートすると言っていたので、別に早く帰ってこいと言いたいわけではない。そういう制限をするために言い出した話ではないのだから。ただ、あとちょっとがどれくらいかわからないのは困る。
(家で待ってた方がよかったかしら)
 でも、早めに来たから似合いそうなネイルが見付かったんだ、とも思う。私もスタバでコーヒーを飲んで待ってようか、そう思っていると、急にスマホが揺れてメッセージを受信した。
『今着いたよ』
「あ、陣ちゃん、いた!」
 駅ビル前の改札から出てきたふわふわ髪の少女は、右手で手を振り、もう片方の手は男と繋いでいた。
「遅かったじゃない」
「あのね、陣ちゃん。ユウくんが今日から家まで送ってくれるって」
 そして、さらりとそう言った。
「だからもう大丈夫だよ」
 ね、ユウくん、と萩原は隣の男に微笑みかけた。

 その一連の出来事について、松田は、「薄情な女!」と怒り、ひとりで家に帰ってリビングのローテーブルに突っ伏していた。
(嫌なら嫌って別に言えばいいじゃないのよ。男まで使って。別にタクシーで帰らせるのだっていいわよ。タクシー代くらい出すわよ)
 成人していたら絶対にビールでも煽っていたに違いないと思いながら、ペプシコーラの缶で気を紛らわせる。
(萩の……バカッ……)
「嫌なら嫌って言えばいいじゃないのよ!」
「ただいまぁ、陣ちゃん」
 元凶は、のほほんと帰宅してきた。
「あ、コーラだ。陣ちゃんってコーラ好きだよね」
 萩原は、炭酸水って口の中がぱちぱちするから苦手だなぁ、と言っている。
『あと何だか不思議な味がするし。あれって、何の味なの?』
 この子家で紅茶しか飲まないんじゃないかしら、と最初に聞いた時に思った。
「陣ちゃん?」
 上手く言葉が出てこない。怒ってんだからね、と言いたい。でも、彼女がそれほど悪いことをしたわけではないのかも知れないと冷静になれば思うのだ。思う。でもちゃんと約束した。必ず呼ぶと。それを一方的に反故にされた。やっぱりムカつく。
「私ね、私の好きなアイスミルクティーを帰りに買ってきたんだけど……陣ちゃんも、飲むかなって」
 萩原はひょいと松田の隣に座って、買ってきたと言った紙袋をテーブルに乗せた。
「飲む?」
「……飲む」
「うん。一緒に飲もうよ」
 萩原が紙袋から取り出して渡してくれたミルクティーは、普段テイクアウトで飲むコーヒーよりずっとずっと甘かった。
 怒ってるの? と萩原は顔を覗き込んだ。
「アンタ、ちゃんとしたじゃない。私と。約束」
「うん。でもね、陣ちゃんも、いつもいつも私が呼んだら困るでしょ? 私、陣ちゃんに、もう一緒に暮らしたくないって言われたくないなって思ってたの」
「……そこは、カレシ作るのやめるとか、デートで夜遅くならないとか、そういうこと考えなさいよ」
「えー、それはムリだよぉ」
「……バカ」
 でも、わからないはずはなかった。萩原が自分のことを大好きなことを松田は知っている。だから自分の真心だって、ちゃんと彼女に通じているということを。彼女が迷惑だなんてこれっぽっちも思っていないことを。
(そんなの、わかってるわ)
 そして彼女はバカじゃなくて、賢くて、いつも迎えに来させることに気が引けないわけではないというだけだ。
「ほら、見て、萩。アンタを待ってるあいだに、アンタに似合いそうなネイル見つけたのよ」
「わぁ、綺麗な色! 陣ちゃん、また塗ってくれるの?」
「いいわよ。アンタより得意だから、塗ってあげる」
「エヘヘ、嬉しいな。ねぇ陣ちゃんネイリストになったら?」
「それ、浮き沈みの激しい仕事でしょ?」
 松田は軽く肩を竦めて見せた。
「だから、別にいいのよ。いいって言うか、アンタがちゃんと帰る時間を正確に言えば私も無駄に待たなくていいんだけど。でも、駅前で買い物して帰るのは好きだし、駅のコンビニのアイスも美味しいし、ミスドもあるし、モスもあるし、フラペチーノも、タピオカミルクティーだってあるじゃない」
 いいのよ、ともう一度松田は言った。
「いいんだから、遠慮なく呼びなさい」
「……うん、わかった」
 それからまた萩原は駅に着くと、松田に電話をするようになった。彼氏とは、3カ月でまた別れたらしい。


タイトル画像はいつもCanvaで作ってます。お世話になってます!
松♀「大体なにがユウくんよあんなチャラそうな男……」
萩♀「陣ちゃん! チャラ男を悪く言ったら、何か、ダメだよ!!!!」

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