宿泊施設の廊下を歩いていると、ぬいぐるみがポツンと落ちていた。Q・Pは、ぬいぐるみを愛着するようなことはないのだが、ぬいぐるみが捨てられているということに、言い知れぬ感情を抱く傾向にあった。人は多分それをトラウマと言う。
それがゴミにしても、いらないものであるとしても、看過することはできないだろうと近付いてみると――。
「キュピッ」
鳴いた。思わずQ・Pもビクッと身体を震わせた。人はQ・Pを感情のないように言うが、Q・Pも別に驚く。表情にはほとんど出てこないが。
ぬいぐるみは起き上がってQ・Pの方を見た。そのぬいぐるみはQ・Pの能面のような自分の表情とよく似た顔をしていた。
(な、なにこれ……)
これは、どこかに通報した方がいいのだろうか。
(ボクとは無関係だけど)
だが同じ顔をした人形だ。自分とは全く無関係だなんて、誰が信じるだろうか。呪い? それとも神様のいたずら? いずれにしても放置しておくことはできないだろうから、誰かに見付かる前にそれを回収しようとQ・Pが思った次の瞬間に、背後から声を掛けられた。
「やあ、Q・P。どうしたんだい?」
「えっ……監督……」
まずい、と思ったときにはすでに遅かった。「キュピー!」と鳴いた生物? 物体? 人形? は、大きく跳ね上がっていたのだ。「えっ何」とレンドールが驚いた声を上げる。ぬいぐるみはぴょこんと飛び跳ねると、レンドールの顔にぶつかった。
「うわぁ、一体どうしたんだい」
すごい速さで突撃したが、多分中身は綿とかなので、レンドールの顔に衝撃はあまりなかったようだった。身体も何らぐらついていない。学んだらしい綿の入った物体は、次は跳躍してレンドールの肩に乗った。すりすりと頬に頭を擦り付けている。
「ちょっと!」
ボクのコーチにベタベタしないでほしいんだけど! いや今は自分のコーチではないけど……。変なことで一瞬弱気になったが、だからと言って、自分に似たぬいぐるみの接触を許容する理由はない。Q・Pは綿の入った物体をむんずと掴んだ。「キュピー、キュピー!」と何か訴えながら、手足? をバタバタさせている。綿のくせに。
「ごめんね、監督。こんな……いらない人形が……」
「いらない人形じゃないよ! 大丈夫、落ち着いて、Q・P」
監督の言葉に胸をときめかせたところで指の拘束が弱まった。その隙をついて綿はまたレンドールの肩に掴まった。
「それで、この――可愛い人形? は、一体?」
「わからない。ボクも知らないんだ。廊下を歩いていたら、落ちてて……」
俯いてQ・Pが言うと、レンドールは綿の集合体をそっと掴んで、自分の肩に座らせてあげていた。「キュピ! キュピィ!」と綿も心なしかレンドールの優しさに喜んでいるようだ。
「うーん、とりあえず僕が預かっておこうか?」
「え? でも、こんな人形……必要ないよ」
「そんなことはないよ! 大丈夫、ちゃんと大切に預かっておくから」
「レンドール……」
こんな得体の知れない物体? 生き物? 綿? でも、自分と似たすがたをしている人形だ。粗雑に扱えば悲しい気持ちになるとレンドールは感じてくれているのだろう。まぁペットと違って世話は必要ない……そもそもこれは何なんだろうと考えるのをQ・Pは段々放棄してきていた。わからない……人間が巨大化するのもいまだに理由がわからない世界なのだから……。
「でも、いらなくなったら捨てていいよ」
「いらなくないからね。大丈夫だよ、Q・P」
ほぼレンドールに宥められて、Q・Pはトボトボと部屋に帰った。
*
「キュピッ、キュピッ」
肩の上で声を上げているQ・Pにそっくりのぬいぐるみを部屋に連れ帰ったレンドールは、彼をそうっと机の上に下ろしてあげた。
(どう見てもぬいぐるみなんだけど……)
どれほどAIが発達したとしても、ぬいぐるみが自立して動く世界にはまだ到達していないとレンドールは考えていた。そういえば昔、Aiboというペットロボットが流行ったような気がする。あれも結構昔の話だ。Q・Pは知らないことかもしれない。
「キュピ」
(Q・Pに似てるからキュピって言うのかなぁ?)
とりあえず連れてきたものの、彼をどのようにしてあげるのがベストなのか、レンドールにもさすがにわからない。
Q・Pは、かつて、心無い人たちに『いらない人形』と呼ばれていた過去がある。あまりにも惨い言葉だ。彼の過去が決して消えてなくならないことを、レンドールはとても悲しいと思っている。普段はもう過去に囚われることのないQ・Pだが、こうしてぬいぐるみを見ると、嫌な思い出がフラッシュバックするのだろう。何だか意気消沈していたのが気がかりだ。あとで大丈夫か電話でも聞いてみよう、と思いながら、ぬいぐるみの頭を撫でてあげた。
「キュピー……」
触った感触はやはり布製。肩に乗ったり持ち上げた感覚から、中に機械仕掛けが仕込まれているような感覚はない。マイクロチップが仕込まれているくらいならありえるかも知れないが、それで動く、声を発する、ということはまだ人類には難しいのではないかと思われる。
身体を探ってみれば何かわかるのかも知れないが、Q・Pによく似た人形の身体を探るのは、レンドールにはかなり気が引けた。ともするとセクシュアルハラスメントになってしまうのではないかとも思われる。大袈裟かも知れないが、監督やコーチという職業は、年若い少年らを相手にすることが多く、彼らは大人の影響を受けやすいので、レンドールは慎重に行動するように努めているのだ。特に、代表監督という立場の意味は重い。
ぬいぐるみを探るのは本人に明日任せればいいだけのことだ。しかし、どれほど探っても実態は明かされないのかも知れない。何故なら自分たちもギガントの実態すら明かせていないのだし。
そのときレンドールは空腹を感じ、夕食を食べに食堂に行こうと思った。全体練習を終えて、コーチとのミーティングを行い、もう夕食にも遅い時間と言える頃合いだ。
「そういえば、キミは食事をするのかい?」
何気なく尋ねてみると、彼は、ぴょこんと飛び上がった。
(――いや、何を言っているんだろうな、僕は)
レンドールは頬を掻いた。よく動くので、本当に生きてるようにしか思えなくなってきていたのだ。クリッとした青い瞳がじっとレンドールを見つめている。何でも日本では『チビ』という人間のアートスタイルが広まっているらしいのだが、そのような趣だ。可愛い。凶暴なクマをテディベアにするとキュートになるが、人間もこのようにぬいぐるみになってみるとまた別の愛らしさがあるというもの。それも、可愛がっている昔の教え子の顔なら、レンドールにとっては愛らしさもひとしお。
「そうだ、ヴェルタースオリジナルがあるよ」
そう言ってレンドールは、キャンディの袋を開けて、小皿に乗せてテーブルに置いた。彼はぴょこんぴょこんと飛び跳ねている。
「キュピッ、キュピピッ」
(喜んでるみたいだ)
待っててね、と頭を撫でて、レンドールは部屋を出た。
そうして夕食を食べて戻ってきたところ、飴玉がなくなっていたので、もしや彼が食べたのだろうか、とレンドールは思った。ぬいぐるみが……。
(あまり深く考えないでおこう)
*
翌朝、頬に触れる何かの感触でレンドールは目を覚ました。
「キューッ、キュピーッ」
(えっ、何だ?)
「キュピピッ!」
柔らかいような布の感触が頬を叩く。レンドールはまばたきをして現実を思い出そうとした。それから横目で自分の頬を叩いている? ような気がする方へと視線を向ける。
そこにはぬいぐるみがいた。小さな腕部でレンドールの頬を、ぺちぺちという感じで触っている。
(そうだ、彼はQ・Pによく似たぬいぐるみで)
慌てて起き上がろうとした所為で、ぬいぐるみがよろけそうになったので、レンドールは慌てて彼を掴んだ。
「おはよう、Q・P……でもないのかな……? まぁいいか」
「キュピピッ」
スマホを見ると、時刻は設定しているアラームが鳴る五分前だった。どうやら彼が起こしてくれたらしい。ありがとう、とレンドールはほほえんだ。単なるぬいぐるみとは思えぬ優秀さは、まさにQ・Pのようだと思う。
「キュピィ……」
「うん? どうしたんだい?」
Q・Pによく似たぬいぐるみ――略してQ・Pぬいは、ぴょんぴょんとまた跳躍して、レンドールの肩に飛び乗った。
「キュピィ!」
「おはようって言ってるのかな?」
Q・Pぬいが頭、パーツで言えば顔の部分をぺたりとレンドールの頬にくっつけたので、もしやこれは朝の挨拶のつもりなのではないか、とレンドールは閃いた。ぬいぐるみの気持ちがわかるなんて、初めてのことだ。多分二度とないことだろう。レンドールもかつては小学生を教えていたこともある。子どもの気持ちを考えるのと同じこと――なのかも知れない。
「よしよし。じゃあ僕も」
そう言って、レンドールはQ・Pの身体を優しく掴んで自分の前に連れて来た。多分、挨拶のように頬にキスしてくれたんだろうなと思い、そっとそのふわりと膨らんだ頬に唇で軽く触れてあげた。やってみてから、寝起きにすることではなかったかも知れないなぁと思ったのだが。
ガッシャーンという衝撃音が響いたので仰天してしまった。
「レ、レンドール……!」
えっ何? 何が崩れたの? 何が壊れたの? とレンドールは驚いてキョロキョロ辺りを見回してみたが、そこには可愛い(元)教え子がいるだけだった。Q・Pぬいは衝撃で驚いたのか跳ねている。
Q・Pはその手でぬいぐるみをむんずと掴んだ。
「お、おはよう、Q・P……」
「おはようレンドール。いつまでもこんなものをレンドールの傍に置いておくわけにいかないと思って回収しに来たんだよ。部屋の鍵が開いていたから……」
Q・Pはむんずと掴んだぬいぐるみをぎゅっと握り締めた。キュピッとぬいぐるみが苦しそうに……苦しいのかはよくわからないが、声を上げた。彼はもうすでに着替えていて、いつものドイツ代表の黒いジャージを着ている。対してレンドールはまだ寝起きのパジャマのままだ。
(いや重要なのはそこじゃないような)
ぬいぐるみに挨拶(?)していたのを彼に見られたとなると、これは問題ではないだろうか。セクシュアルハラスメントとか言われたら、否定できなくもないが、何だかよくわからない話になっているような。
「キュピッ、キュピピッ」
「……にだけなんて……」
(お、怒ってる……?)
「ぬいぐるみにだけするなんて納得できないよ!」
「キュピーッ、キュピピッ」
「えっ、どういうこと?」
Q・Pはまだベッドにいるレンドールに近付いてきた。せめて着替えてから話したいとレンドールは少しばかり思った。
「いいよね? ぬいぐるみにはしてたんだし」
「ちょっと待ってほしい、Q・P。もしかして、さっきの……?」
Q・Pは特に表情を変えることなく、いつもと同じ顔でこくりと頷いた。
「キュッピピッ」
「いや、その、誤解しないでほしいんだけど、彼が挨拶で僕の頬に触れてきたみたいだったから、それを返そうと思っただけで他意はないんだ」
「じゃあボクがしたら、ボクもお返しにしてもらえるの?」
「それとこれとは話が違うっていうか」
「どうして?」
にじり寄ってくる目の前の少年の意志が強固であることはレンドールも知っていたが、まさかこんなときにまで滅茶苦茶強固になるとまでは思わなかった。
(いや、チームの子にそんなことをするなんて、ハラスメントどころの問題じゃないんだけど……!)
「……ずるいよ……」
切実そうな声にレンドールはドキリとした。
(Q・Pは、一人きりで生きてきて)
例えば誰かに抱き締められた記憶も、頭を撫でてもらった記憶も、愛しい子と言ってママが頬にキスをしてくれたような記憶もないのだ。そのことをレンドールは知っている。彼が年相応の少年らしい感情を有していることも、きっと誰か守ってくれる人が欲しかったのだろうということも。
「Q・P、隣においで」
Q・Pは頷くと、ちょこんと隣に座った。
(とは言え、頬にキスするのはさすがにちょっと、倫理的な問題がありすぎる……)
でも、彼の要求を拒みたいわけではない。レンドールの立場の問題を、この聡明な子ならばちゃんと理解できるはずだ。そう考えて、そっと膝の上の手を握ってあげた。
「レンドール……」
「キミは『人』だから、不用意な行動をすることは僕にはできないよ。人間だからね」
本当は、手を握るのも、あまり望ましくない行動とされるのかも知れないけれど、それではさすがに説得力が欠けるというものだ。許される範囲だろうと思う。
Q・Pは頷いてから、「でも羨ましかったんだ」と呟いた。いつのまにかぬいぐるみはレンドールの肩によじ登っていて、「キュピィ」と言った。彼は何とも神出鬼没だ。
「……レンドール、レンドールがするのはダメなんだよね?」
「うん、僕がすることはできないかな」
「じゃあ……ボクがするのはいいよね?」
そう言うと、羽のように軽い感触が頬に触れて、一瞬で離れた。レンドールは驚いて反応できずに目を丸くするばかりだ。
「これは――平気だよね?」
「えっ? えっと……」
Q・Pは肩にいるぬいぐるみを掴むと、「朝早くにお邪魔してごめんね」と言って、去っていった。
(ええ? えええ――……)
その柔らかい感触を受け止めたときに、レンドールは、自分からもしてあげても良かったのではないか? と思ったのだ。
(い、いやいやいや、良いワケがない……!)
ギャグにしたいのか、シリアスにしたいのか、ラブコメにしたいのか、よくわからないままである。テニスの王子様の世界観は現代でありファンタジーでもあるという気持ちでいます。
レンQ・Pはレンドールの倫理に頼っているカプなので(※個人差があります)、いつもQ・Pからの矢印がめちゃくちゃデカくなるわけです。