ケン・レンドールはヘンドリックの友人だ。彼は気のいいヤツで、明るく陽気で誰とでも仲良くなる男だった。ヘンドリックが最後に彼と会ったのはもう半年以上も前のことで、そのとき彼はどこかの選手のコーチをしていると話していた。
レンドールがテニスをやっていて、大学を出てコーチになったという話をヘンドリックは聞いていたが、その次に会ったときには清掃員をやっていると彼は言った。一体全体どういうことなんだと思っていたのだが、レンドールは特に事情を話すことはなく、その次に会ったら今はテニス協会の方にいると言った。それから一年くらい経って、彼の顔を見たのはテレビの向こう側で、ケン・レンドールはテニスの世界大会の代表監督になっていたのだった。とんでもない男だ。それが今は最初に戻って、とあるプロ選手のコーチをやっているという。もう摩訶不思議な人生だ。
レンドールはとてもいいヤツだと思うのだが、いつ会っても、まだ結婚していないと言っていた。ヘンドリックは妻にそういう話をしては不思議がられていた。だってレンドールさんていつもほんとにいい人でしょう? アンタが飲み過ぎたらウチまで連れ帰ってきてくれるし。穏やかで真面目で優しい人じゃないの。と。そんなことを言われても、ヘンドリックに理由がわかるわけもない。彼の一番の友人とかいうほどに親しいのでもないし、Facebookで近況をそういえば見ることもあるが、会って飲むのは数年単位だし。
ただ言えることは、妻と同じくらいにヘンドリックも疑問に思っていたということだ。これくらいの歳になってくると、もう結婚してるヤツはとっくにしてるし、しないヤツはもう永遠にしないんじゃないか、くらいに分かれてしまう。もしする気があるんなら、そろそろ本腰を入れて嫁さんを探した方がいい、金ならあるんだし、あの性格ならすぐ見付かるだろうと、まぁそんなことを少し前までは思っていたのだ。
「ケン、結婚したんだよなぁ」
「らしいよなぁ。嫁さんの顔、全然見たことないけど」
大学時代のよく飲みに行く友人も同じようにレンドールのことを知っていたので、何気なくヘンドリックは、友人フレデリックに話を振ってみた。ヘンドリックとフレデリックは響きが似ていて、いつも何となくコンビのように仲がいい。
ヘンドリックは会っていないが、フレデリックは最近レンドールと会ったらしい。そのときレンドールは左の薬指に指輪をしていたので、お前結婚したのかとフレデリックは驚いたそうだ。何せそんな話は誰からも聞いたことがない。結婚式には呼んでくれなかったのかと文句を言ったら、やってないと言われたそうだ。相手はどんな人なのかと聞いてみても、優しいとか可愛いとかふんわりした返答で、結局写真の一つも見せてもらえなかったという。
「まぁ、結構忙しいみたいだしな、プロ選手のコーチって。海外の遠征も付いてくらしいじゃん?」
「そうなのか。んじゃ、新婚なのに、嫁さんとはあんまりいられないのか。大変だなぁ。でもホント、相手誰なんだろうな。噂も聞かないし……あぁ大学のときに付き合ってたのは? なんつったっけ……」
「えーと覚えてないけど、あれはフラれたんじゃなかったっけ?」
「コーチ辞めちまって」
「そうそう。んで、フラれって聞いた気がする」
「えーっと、そうだ、エリーザだ。エリーザ、アイツ、結構ギラギラしてたからなぁ……ケンが監督なったとか聞いたら、結婚しておけば良かったとか喚きそう」
「まぁ、またコーチ戻ったらしいからいんじゃね?」
「んで、どんな子かって話よ、妻。ケンの」
「そうそれ」
いつものように二人はビーアを大量に飲んでいたので、何だかふとそんな、いつもなら別にどうでもいいはずのことがめちゃくちゃ気になってきた。気になる。あのレンドールの嫁さん。あの、女からは妙に人気で(別に妙ではなく順当であるので単なる酔っぱらいの感覚である)本人は仕事ばっかりのレンドールが。
「……家行ってみたらいいんじゃねぇの? 嫁さんいるだろ、今の時間なら」
で、そんなどうでもいいアイデアが思い付く。
「いいねぇ! 行くか! ケンの家! オレ昔行ったことあるからさ! わかるぜ!」
ワハハと、酔った二人は意気投合した。幸いレンドールの家は以前から変わっていないようだった。もし間違って別の人が住んでいたら謝ればいいだけのことだ。そもそも遠征がどうだとかいう仕事らしいので、いるのかどうかなんてわからない。でも家には留守を守っている奥さんがいるのかも?
そんな、限りなく適当な、ふわっとした考えで、二人は勘定を済ませて店を出た。
「まだ飲み足りねぇよな、フレデリック!」
「だな! ケンの家でアイツと飲もうぜ!」
幸いに、というか、レンドールからすればおそらく不運にも、二人の飲んでいた店はレンドールの家まで案外近いのだった。二人の酔っぱらいはタクシーに乗って友人の家にやってきて、チャイムを鳴らした。
「おーい、いるか、ケン?」
「飲みに来たぞ!」
二人が玄関先で騒がしくしていると、ガチャリとドアが開いた。そこから出てきたのはプラチナの髪をしたきれいな青年だったので、思わず二人は顔を見合わせた。
「誰? ケンの知り合い? こんな遅くに何の用事?」
「あ、えーっと、ここってケン・レンドールの家、だよな……?」
「そうだよ」
「オレたち、飲みに来たんだ。なぁ、相棒?」
「そうだそうだ。そうなんだよ。ケンはいるか? あーっと、オレはヘンドリックで、こっちはフレデリックって言うんだよ。ケンの大学時代のダチさ!」
彫像のように美しい表情の動かない青年は、じっと視線をこちらに向けて、それから頷いた。
「入っていいよ。呼んでくるから」
そしてそう言って、家のなかに案内してくれた。
「なぁ、今のって、どっかで見たことある気がすんだけど」
「あーたしかに……なんだ、なんか見覚えが……」
美青年によって案内された部屋で、二人が椅子に座って考えていると、ぱたぱたと駆けてくる音が聞こえた。
「ヘンドリック! フレデリック!」
「やあやあ久しぶりだな友よ。元気そうだなぁ」
ワッハッハとヘンドリックは笑った。ふと、そういやカミさんにあんまり遅くならないようにって言われてたっけな、とか思い出す。思い出したがすぐに霧散する。そんなことよりビーアだ、ビーア。
「僕の記憶する限りでは、キミたちと飲む約束はしていないと思うんだけど」
「いいだろー! たまにはさ。ほら、ビーア飲もうぜ! まだ飲み足りねぇんだよ」
「酔ってウチに来たのかい? どういう理由で?」
「んなのアレだよ、アレ。アレに決まってる。アレ、なんだっけ……」
「オイオイ、さすがに酔っぱらいすぎだろ! 見に来たんだよ、ケンの嫁さんをよ。どこにいるんだ? てか案内してくれたのって、さすがにあの歳の子どもがいるとかじゃねぇよな? 誰?」
レンドールは手を額に当てると、大きくため息を吐いた。
「僕のパートナーだ」
「パートナー……って、え?」
「だから、妻だよ。まぁ、男だからふつう妻とは言わないけど、キミたちにわかりやすく言うと、そういうことだ」
二人はぽかんとした。
それから少しして、フレデリックは思い出したようだった。「あっ、さっきのってQ・Pじゃね?」と。
「Q・Pって?」
「ほら、ケンが今付いてる選手だよ。去年プロになって、たしか、もう世界ランク20位くらいの……」
「そういうことだ。Q・Pはまだプロになったばかりで大事な時期だから、妙な噂が立たないように、あまり外では言わないようにしているんだ。キミたちも、酔うのはいいけど、あまり喋らないでくれよ?」
「えーっと……ケン、何、あの子と結婚してんの?」
「だからそう言っただろう」
「えっ、つまりどういうこと?」
「キミたち酔っぱらいすぎじゃないか?」
レンドールは呆れたようにまた手を額に付けて、頭を振っている。
そのときコンコンとノックする音がした。
「ビーア持ってきたよ。おつまみは何かいる? 作ろうか?」
「Q・P、この人たちはね、勝手に家に押し掛けてきたんだよ」
「そうだったんだ。でも、ケンもたまにはビーアが飲みたいよね? いいよ。何か作って持ってくるから、飲みながら待ってて」
「ごめんね、Q・P、しょうもない大人たちばかりで」
「オイ、ケン、嫁さんの前でカッコ付けてんのか? お前だってドイツ人ならビーアが飲みたいはずだ!」
「そうだそうだ! お前も飲むぞ。そういやQ・Pって酒飲める年だっけ?」
「Q・Pはコンディションに関わるからビーアはなしだ。ごめんね、Q・P、騒がしくて」
「ううん、まだ平気」
相変わらず彫像のような変化しない顔が軽く首を振って、レンドールの嫁だと聞かされた美しい人は、ビーアだけを置いて去っていく。
「オイオイ、いい嫁さんじゃねぇか。めちゃくちゃきれいな顔だし」
「さっきも言ったけど、彼は男だから」
「よし、今夜は飲むぞ、ケン! お前の美人の嫁さんに乾杯だ!」
「プロージット!」
「プロージーット!」
ドイツ人にとってビーアは水だ。
「いや、血だ!」
「そーだそーだ!」
「何でもいいけど、キミたちは飲んできたんだよね? まだ飲むのかい?」
「何だよ、いいじゃねぇか。たまには語り合おうぜ。結婚生活はどうなんだよ? ん?」
「ハァ、それよりキミたちはどうなんだい。仕事は?」
「何も変わりねぇっての! ケンみたいになぁ、波乱万丈なヤツなんざそうそういないっての」
「波乱万丈? そういうつもりはないんだけどな」
レンドールはこくこくとビーアを飲んでいるのだが、さほど酔ったようすは見られない。昔からそうなのだ。レンドールはめちゃめちゃ酒に強い。平然と飲んでいる。酔い潰れたのを見たことがない。
彼は結局パートナーとの私生活についてはほとんど語らなかった。フレデリックのようには、ヘンドリックはQ・Pのことを知っているわけではなかったので、何だか若そうな子と、毎日イチャイチャしてやがんのか、羨ましい、と思うくらいのことである。あんなに美人の嫁なんて羨ましい。
(いやいやもちろんうちの嫁さんが悪いってなワケじゃあないけどさ)
美人の恋人だの嫁だのを見たらとりあえずやっかんでおく。自覚はないが酔っぱらいなので、胡乱な感じで、そんなことをヘンドリックは考えていたのだった。それに対して、Q・Pという選手を知っているらしいフレデリックの方は、もう少し真っ当に、彼の試合がどうだとか、そういう話をレンドールにしていて、それについてはレンドールもにこにこと答えていた。
それからどれくらいかして、コンコンとまたノック音。レンドールは素早くドアを開けて迎え入れた。
「お待たせ。タパスを作ってきたよ。ピンチョス、アヒージョ、ミートボール、トルティーヤ……カリーヴルストも用意したからね」
「えっ、そんなに? ごめんね、Q・P」
「大したものじゃないよ」
「うわっ、何だこれ、メシか? こんな豪華なメシがドイツにもあんのか?」
「あるわけねぇな! ここは異国、いや天国だ!」
「二人は何を言ってるの?」
「酔っぱらいの話なんて聞かなくていいんだよ、Q・P」
さっきまで二人はポテトとヴルストを齧るだけで酒を飲み進めていた。レンドールのパートナーが持ってきてくれたのは、小皿に小さく乗せられた数々の料理で、どれだけ飲んだくれていたとしても、その華やかさが一目でわかる。一瞬で、レンドールは毎日美味いメシを食っているんだとヘンドリックは理解してしまったのだ。
「ッ、お前、ズルいヤツだな……ホント……!」
「うわっ、何だい急に」
「ズルいだろ、こんないい生活して! このヤロー! いつもこんな美味いの食ってんのか!」
「それはそうだけど。ふふっ、Q・Pは料理上手なんだよ。健康にも気を使ってくれて、いつも美味しいご飯を食べてるんだ」
「チクショー、急に惚気んなよなー」
と、ヘンドリックはレンドールに無駄に突っかかっていたのだが、フレデリックの方はレンドールに目もくれない。皿の料理しか目に入っていないかのようだった。
「うめぇな、このパンの? ヤツ?」
「ピンチョス」
「うめぇうめぇ」
「……と、Q・P、ところでどこからこういうものが出てきたんだい? キミの新しいレパートリー?」
「スペインのバルで出てくるおつまみだって。ボクはおつまみにどういうものがいいのか知らないから、調べて出てきたものを作ってみただけだよ」
「ありがとう。……何だか、こんな惨状で食べるのは惜しいなぁ」
「おいケン、もうピンチョスなくなるぞ? フレデリックがすげぇ食ってる」
「これ、ホントうめーなぁ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか! 全部一気に食べないで!」
「これが話題の食い尽くし系ってやつか?」
「ちょっと、フレデリック! 僕も食べるから!」
「ボクは部屋に戻ってるね。おやすみ、ケン」
「ああ、ごめん! おやすみ、Q・P」
彫刻は変わらない顔のまま部屋を出て行った。いや何度見てもどっかの国の美術品にでもありそうな顔だったとヘンドリックは感心する。フレデリックは料理をバクバク食べている。
「ミートボール、うま!」
「だから全部食い尽くさないでくれって!」
やっぱりレンドールはすごくいい生活をしてるんだ、とヘンドリックは心の底から羨んだのだった。
*
――翌日。
「ケン、昨日来たヘンドリックの奥さんから電話だよ」
「ああ、ありがとう、Q・P。こんにちは、お久しぶりで」
『昨晩は夫が大変申し訳ございませんでした……!』
Q・Pは受話器の向こうの声が聞こえたようで、微かに笑ったようだった。
「妻って大変だね」
*
二人が結婚して、2年が経った。プロ選手として活躍するQ・Pは20歳になり、そろそろ周囲にも二人の婚姻関係を話してもいい頃合いだろうからと、周囲にはコーチと選手であり、そして夫婦でもあるのだということを話すようになってきていた。薄々そうでないかと思っていたと、何人かからQ・Pは言われたらしく、それでもみんなが祝福してくれたとレンドールにも伝えてくれた。
彼が最初に話したのは意外にもミハエルだったらしく、彼に恋愛相談のようなことをしていたのだとレンドールは聞いて、Q・Pの交友関係を案外自分は知らないものなのだなと思ったものである。
レンドールの方は、昨年くらいには、結婚しているということを周囲に話していたので、それが誰なのかということを公にするようになっただけなので、それほど周囲の反応は大きく変わらない。
ともあれ二人は公私ともにパートナーとして過ごして順風満帆な生活を送っている――はずだった。
『Danke für alles. Tschüss.《今までありがとう。さようなら》 Q・P』
テーブルに置かれている手紙を読んだ瞬間に、レンドールの頭のなかに記憶がフラッシュバックして蘇った。
それはかつてQ・Pが自分に向けて送ったメールにあった言葉だった。
*
事の発端は、レンドールがかつて親しくしていた女性――人はそれを昔の恋人、元カノと言う――と再会したことだった。
「ハーイ。久しぶりね、ケン。私のこと覚えてる?」
彼女エリーザは、レンドールが大学時代に交際していた女性だった。決して多くは結んでない関係の相手であったから、レンドールも、もちろんその面影を忘れてはいなかったが、会うのは10年以上ぶりのことだ。別れて以来、顔を合わせていない。風の噂で結婚したようだとは聞いていた。レンドールもまったく興味がなかったというわけでもないのだが、あいにくと多忙な日々が続いていたので、昔の知り合いのことを考えているような余裕はなかったのである。さすがにレンドールも、別れた相手の将来について知ることがその人への礼儀だとも思っていない。
「久しぶりだね、エリーザ」
「聞いたわよ、世界代表の監督さん」
「今は違うよ。コーチに戻ってる」
「そうみたいねぇ。知らなかったわ。ねぇどうして? あのとき簡単に辞めちゃったでしょ?」
「……まぁ、いろいろと縁があってね」
彼女と別れた理由のひとつに、レンドールがGTAのコーチを辞めたことがあった。エリーザはGTAに就職した際にとても喜んでくれて、これで将来安泰よね、と言っていた。レンドールとしても、GTAのコーチとしてキャリアを積むことがコーチとしての自分の人生にとって重要なことだと思っていたので、その言葉に特に何も思わなかったのだが、Q・Pと出会い、コーチという仕事を手放すことになったときに、彼女からは「バカみたい」と叱られた。そんなことで仕事を辞めるなんて自己満足だ、と。
その言葉がまったくの的外れかと言えばそうでもない。レンドールは自分の人生をテニスのコーチとして過ごすものだと考えていたのだ。だから、それを諦めるということは、重大なことだったのだとレンドールは思う。誰かが「それはやめた方がいい」と警鐘を鳴らすことも、時には必要なことだろう。そうでないと、自分を振り返れなくなってしまうから。
ただ、今でもレンドールは自分の選択を誤りだと思わないし、一つも後悔していない。彼女が自分の目の前を去っていったときには、淋しさを感じた。もしも自分が同じ立場にいたら、支えるという選択をするはずだと思う。そうではないことについて、彼女に非はないけれど、彼女と自分の信念は違うのだと感じて、とても残念に感じたのだ。そうであれば、彼女と道が違えたのは必然だったのだとそのとき思った。遅かれ早かれ二人の道は別れただろうと。そしてもう、二度と道が重なることはない。そういう意味で、彼女の未来に関して、レンドールはもう離れた立場にいるだけだ。
「それで、僕に何か用事かな? もう家に帰らないといけないんだ、妻が待ってるから」
レンドールがあえてそう言ったのは、何となく予防線を張っておくべきだと脳が判断したからだった。普段のレンドールは、女性ではない自分の伴侶を、人前で妻とは呼ばない。パートナーと言っている。Q・Pが自分をどう言っていようと、そのような態度を取っていた。家では「僕のかわいい奥さん」と言うが。
「妻って、あのコドモのこと? 聞いたわよ、あんな子と結婚してるんだって」
「エリーザ、そういう言い方は人に対して失礼だと思う」
「ほんとのことじゃない……ケン、そんな趣味だったの?」
今私フリーなのよ、とエリーザはにこっと笑った。
「ね、だからいいじゃない?」
「何がいいのか僕にはわからない」
「大丈夫よ、子どもにはなんにもわからないんだから。ケンだって、いろんな子と遊んでるでしょ? だって、代表監督だったんだものね。女の子なんて、選り取り見取り……」
「そういうことならキミとは二度と会わない。さようなら、エリーザ。元気で」
「あっ、ちょっと待ってよ、ケン!」
レンドールはエリーザに背を向けて、足早にその場を立ち去った。彼女には悪いが、昔は選手でもあったレンドールが走れば、女性の足では追いつくことができない。適当に撒いてから駅へと向かった。
こういう再会なら、もう会わない方が良かったとレンドールは心から残念に思った。
エリーザはもともと派手な方の人だった。大学で友人に紹介されて、何だか気に入られたようで、付き合っていた。派手な人とは言っても、特に遊び歩く方ではない。ただ上昇志向が非常に強い人だった。家が貧乏で苦労したからだとか、そういういろいろなことを昔は聞いたけれど、レンドールと過ごしていたころの彼女は、明るくて楽しい人であった。それは事実だ。
人は変わる。自分も変わったかも知れないし、或いは今の自分たちこそが本来の自分であるのかも知れない。もちろんそうではないのかも知れない。ただ、自分たちが恋人だったころとは何もかも違う。正直に言うと、遊び歩いていたように思われるのもレンドールにとっては非常に心外だった。
「ケン、少し遅かったね」
「ああ。ごめんね、Q・P。ちょっと知り合いに会ってしまったから」
家に戻って可愛い妻の顔を見て、レンドールはとてもホッとした。彼が真面目で一途な子だから、特にそう感じたのかも知れない。レンドールは、誰に対しても不誠実な生き方をしてきたつもりはない。神にも、Q・Pにも、それを誓える。
(エリーザのこと、Q・Pには言わない方がいいよね。Q・Pも心配するだろうから)
Q・Pはそれほど心配性ということもないのだが、自分のことはよくわかっていない割に、「ケンはモテるから」などと、よく言っているのである。レンドールは別にモテたことはない。それはQ・Pの方である。
ともあれ、パートナーに近付く相手は気にかかるのが常だろう。レンドールは自分のことも考慮して、言わないことにした。きっぱりと拒絶をしたのでもう二度と会うこともないはずなのだから。
*
そう思っていたのだが、再会は早かった。ひさびさに旧友に飲み会に誘われて、Q・Pからも「ボクのことは気にしないで行ってきていいよ、せっかく今はオフなんだから」と言われたので、足を運んでみると、そこに彼女がいたのだ。
「……つまり、エリーザに頼まれて?」
「悪い。ごめん。ぜんっぜんそういうつもりじゃなかったんだよ! まさかまだケンのこと狙ってるとか……だってアイツ結婚してんだろ?」
「僕は詳しく知らないけど、彼女は独り身らしいことを言っていたよ」
「ハァ? マジかよ。騙された」
「まぁいいよ、キミたちに文句を言いたいわけじゃないから。でも、僕は結構困っているから、そのことだけはわかってほしい」
レンドールは公私共に問題なく、穏やかに幸福に暮らしている。Q・Pはランキング上位にいるし(本人はまだ一桁には上がれていないと奮起しているところだ)、家では相変わらず可愛いし。
なので、水を差されたくない。ただそれだけだ。
「冷たいじゃない、ケン。ああいうつめたぁい子といると、心まで冷えちゃうものなの?」
「キミはとても失礼なんだね」
「邪険にしないでほしいわ。もう変なことは言わないから飲みましょう? 私だって、友人と飲みたいだけなんだから。ね?」
そう言うとエリーザは、傍を離れていった。レンドールはふと、Q・Pが周囲を警戒するときに態度が硬くなってしまう理由がわかった気がした。害意に当てられたくないからだ。
レンドールとて、これまでに妬みや嫉み、やっかみを受けたことがないわけではない。若き監督と言われれば、聞こえはいいが、周囲からの視線は冷たく厳しいと思うことも多かった。何かにつけて、経験が足りない、知見が足りない、人脈が足りない……不足は自分でも重々承知しているが、翻って自分はどうなのか、と言い返したい気になることも多々あったものだ。
ただそれらは自分についてだけのことなので、聞き流せばそれで済むことではあった。レンドールは自分について、すべての人から正しく理解と評価をされたいとは思わない。必要な人が必要なことを理解し、評価してくれればそれで十分だと思う。だが自分ではない大切な人のことなら、話は別だ。常に正しく見てもらいたいと思う。Q・Pは本当に優しい子なのだから。
「なぁごめんよ、ケン。オレらQ・Pのことも知ってるしさ、全然悪気はなかったんだよぉ」
「僕もそれはわかってるよ。怒ってもいないから……」
「Q・Pはエリーザのこと知ってんの?」
「いや、知らせてない。彼が知る必要はないことだから。正直、会ってほしくもないし」
彼は特に何とも言わないが、昔恋人がいたことくらいはどうやら把握しているらしい。彼の知っているべき情報としては、これから先もそれだけで十分なのだ。
とは言え、気持ちよく送り出してくれたQ・Pのことを考えると心が痛むので、ヘンドリックとフレデリックには悪いが、レンドールは早めに切り上げてその場を後にした。
「あれ? 飲みに行ったのに、今日は早かったの?」
「うん、そうなんだ。ちょっと明日からの方針を考えようと思っていたら、あんまり興が乗らなくて」
「そうだったんだ。ケン、仕事のしすぎじゃない? 大丈夫?」
「ハハ。大丈夫だよ」
いつものようにソファに座って抱き寄せる。次の遠征先はアメリカで、一週間もすればまた海を渡る。世界各地で開催される大会、ツアーに出場しなければならないプロ選手の生活は過酷だ。帯同するコーチも同様ではあるけれど、自分にとっては、可愛い妻と離れて生活をするわけではないので、淋しいと思う必要がなかった。
私生活でも仕事でもパートナーが同じでは、息が詰まらないのかと友人に訊かれたこともあるが、レンドールは少しもそう思わない。Q・Pもそのようなことは思っていないだろう。レンドールはQ・Pの頭を撫でながら考える。
「ケン? 何かあったの?」
「何でもないよ、青い鳥。キミは何も心配しなくていいからね」
*
あのとき、レンドールから話を聞いていた方が良かったのだろうかとQ・Pはベンチに座って考えていた。少々ようすが変だとは感じていたのだ。でも、彼が何もないと言うのなら、それで良いのだと思っていた……。
空から太陽が沈んで、さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声はもう止んでしまった。
Q・Pとレンドールの住む家にエリーザという人がやってきたのは、練習を終えて家に帰ってからのことだった。レンドールは練習後にGTAの役員会議に出るということで、今日は先に一人で戻っていたのだ。試合がなくともレンドールはいつも忙しそうにしている。
前の試合のデータを一人で整理していたところに彼女はやってきて「ケンから話は聞いてる? ケンとは、昔も、今も、仲良くしているのよ、私」と笑って言ったので、Q・Pは首を振った。そのとき直感で、この人はレンドールの昔の恋人なのではないかとQ・Pは思った。
「こないだも一緒に飲んだもの」
「……そうなんだね」
「知らなかった? あ、ごめんなさい。昔の恋人と仲良く飲んでたなんて知られたくないわよね」
Q・Pは、彼女の言葉に対して、あまり何とも思ってはいなかった。レンドールに好意を持つ人はどうしても気になってしまうものだが、レンドールの誠実な人柄を知っているので、彼女の言うような「仲良く」というのも、半分くらいは聞き流していた。これは、不快にならなかった、という意味ではない。かなり不快だったので、心から、すぐに扉を閉めて出ていってもらいたいとは思っていた。
あの日早く帰ってきたのは彼女のことがあったからかも知れない。そしてレンドールが彼女のことをあえて言わなかったのは、多分自分が気にするからだろう。飲みに行くと言っていた、ヘンドリックとフレデリックのことは、たまに顔を合わせるので知っているし、二人は良い人たちで、嘘を吐かないとQ・Pはわかっていた。
だから、何かを匂わせようというような言動は不和を呼び込みたいだけなのだろうと思う。そう判断したので、感情はそれほど揺らがなかった。
そうした反応に、エリーザの方が気分を害したように表情を歪めていた。多分、嫌なことを言って傷付けようとした相手が無表情だったので、腹が立ったのだろう。このような事態はQ・Pにとっても慣れたことで、表情が変わらないことに文句を言う人間は、いつでも、どこでも、一定数いるのだった。
「何よ、気味の悪い男ね。あーあ、ケンも可哀想。こんな冷たい男と結婚するなんて……」
「もういい? ケンは今日遅くなるから、用事があるならまたにして」
「……ッ! そ、そうだ。ねえ、アンタ知ってる? 昔ケンが言ってたのよね、子どもは3人がいいって」
(……子ども……?)
「あーあー、可哀想。子どももいないままで、子どもみたいなのと結婚して。何でもかんでもアンタに奪われて。哀れな人よね。それじゃあね、Q・P」
そのやりとりを終えて、Q・Pはソファに座って考えていた。昔の恋人がどういう人であっても、そんなことはどうでもいいことだ。ちょっと趣味が悪いんじゃないかと心配するけど。
(でも、子どものことなんて、初めて聞いた)
その発言は嘘ではないだろうとQ・Pは思った。3人。自分を傷付けるためだけに咄嗟に考えたにしては具体性がある。レンドールならそう思うかも知れないとQ・Pにも考えられた。
そもそもレンドールは、多分、子どもが好きな人なのだとQ・Pは思っている。だからこそ、テニススクールでも年齢の低いグループを担当していたのだろう。
(じゃあ、ケンは……。ケンだって、自分の……)
Q・Pは自分の子が欲しいと考えたことがない。おそらく自分に連なっていた者が何もないので、自分が繋げるということを意識しなかったためだ。だからこそ、結婚するときに躊躇うことは何もなかった。そしてきっと無邪気に、彼も自分と同じなのだと思い込んだ。かつてレンドールには女性の恋人がいて、そのときには彼も繋ぐ者のことを展望していたのだろうに。
自分は何でも彼のために差し出すことができるとQ・Pは思っている。愛する人のために。家族のために。選手としても全力を尽くすし、レンドールの望むことのためにならこの身を惜しむことすらない。
(でもこれは――)
それだけは、自分には絶対に手が届かないことだ。世界一の選手になるという目標なら、絶対に叶えてあげると言えるのに。
そう思った途端に心が折れた。これ以上レンドールから何かを奪いたくない。これ以上、レンドールに犠牲を強いることだけはしたくない。それだけをQ・Pはずっと願ってきた。あの日自分の手で彼の夢を奪い取ってしまったから――。
自分のことなんてどうでもいい。どんなに心が砕けたとしても構わない。そう思ったら自然に、『別れる』という言葉をQ・Pは書いていた。
*
手紙に『別れたい』と書かれているのを読んで、レンドールはすぐに、これにはエリーザが関わっていると考えた。レンドールはQ・Pが気まぐれでも軽率でもないことを知っているし、自分を愛してくれているということも十二分に理解しているのだ。
そして、彼がひどく自罰的に『ごめん』と書くことにも心当たりがある。前にも同じように書かれたメールを彼からもらったのだ。彼は自分に対して卑屈に思っていることはないけれど、時折ひどく、「自分の所為で」と感じてしまうことがあるらしいのだ。自分の所為で、レンドールに迷惑を掛けたくないと。そういう感情から来る言葉だ。あのときと同じ。
(同じ――)
あの日のように、自分の元から去っていこうとしている。何かを抱えたまま。
それならばまた同じように彼の元に行って抱き締めてあげればいいのだと――そう思うのに、指先が震えていた。彼がもし目の前から消えて、戻ってこなかったとしたら、と想像するだけで、怖くなる。
震える指先で彼の連絡先を探したが、電源が切られているのか、電話が繋がらなかった。レンドールは少し考えて、着信拒否した番号を探る。
『ハァイ、ケン、やっとその気に……』
「エリーザ、Q・Pに何を言ったんだ!」
『え? 何? 知らないわよ。ねえ、Q・P、私たちが仲良くしてても別に気にしてないみたいだったわよ? やっぱり冷たい子……』
「そういう事実はないだろう。嘘を言うのはやめてくれないか」
『事実、ね。ねぇ、本当にもう一度私と――』
「今後何があってもキミと復縁するつもりはない」
『あっそ。ならもう知らないわよ』
電話はブツンと切れた。すでに着信拒否していた番号だが――その番号をメモリからレンドールはついに消去した。
(エリーザが言ったことの他に、何かあるはずだと思うんだけど)
もしも浮気や不倫を誤解したなら、『ごめん』とは書かない。そもそもQ・Pはそういう誤解をするような子ではない。ただ、ちゃんと言っておかなかったのは自分の落ち度だろう。だってもう関わる気もなかったのだ。Facebookだってブロックしてあるのだし。
(Q・P、一体どこに……)
今のQ・Pに行く宛はない。そのことに気が付いて、レンドールは胸が痛くなった。彼の絶対的に頼れる相手になりたいと願っていたのにも関わらず、こうしてまた傷付けて、当て所ない気持ちにさせてしまった。
もしも、もしも本当にQ・Pが、もうレンドールと過ごすことを望まないと言ったら。
(そうしたら、僕は)
それは嫌だと否定することはできない。そう決めていたのだ。まだほんの若い彼を家族に迎えると決めて。もしも彼が自分から離れたいと言ったら、必ず自分はそれを受け入れようと決めていた。それだけは絶対に、譲ってはいけないラインだろうとレンドールは思ったのだ。
――本当はそんなこと、絶対に嫌なのに。
青い鳥を手放すのはもう絶対嫌だと思っている。
本当は、童話で主人公たちが望んだように鳥かごのなかに入れて大切に大切に……。こんなふうに追い掛けていると、そんなことを考えてしまう。自分はいつも、ずっと、青い鳥を追い掛けているのだ。
レンドールは深呼吸をして、落ち着いて考えた。まだ大丈夫だ。まだ遠くには行ってしまっていないはず。まだ、彼の心も遠くには行ってしまっていないと信じよう。レンドールは静かに考えを巡らせて、彼の行く宛について、一つだけ思い浮かべた。それはさっきレンドールが退社してきたばかりのGTAだ。
(多分、Q・Pはいつもの場所にいてくれるはずだ。昔と同じように)
きっとそうだろう。そして、もしそうであれば、まだ心は離れていない。レンドールは急いでまた車を走らせてGTAに向かった。
日はすでに真っ暗に暮れていたが、役員でもあるレンドールが敷地に入るのは、もう容易だ。Q・Pも来たかと問おうと思ったが、同じ警備員かどうかもわからないのでやめておいた。心の準備も、もう少し必要だったから。
目的の場所は敷地の外れ。ほとんど誰も寄り付かないような場所。
「――Q・P!」
数字が何個も何個も書かれている壁がよく見えるベンチに、Q・Pは身体を丸めて座っていた。急いでレンドールは駆け寄った。
「ケン……ごめん」
「キミが何に謝っているのか僕にはわからないんだ。話してほしい」
エリーザから何か聞かされたの? とレンドールは尋ねた。Q・Pはほとんど顔を上げずに小さく頷いた。
「3人欲しかったって」
「え?」
「ごめんね、ケン。ボクは……」
「えっ、ちょっと待って。3人って、えーっと……」
多分子どものことなんだろうな、とレンドールは思う。昔彼女とそういう話をした記憶も、ないことはない。ただ、当時結婚を視野に入れてそういう話をしていたわけではない。それはただの雑談だったはずだ。結婚したら子どもは3人くらいかな。そういうことをふんわりと話した。レンドールはその時点で人生設計をしていたのではなかったし、彼女の方もそうだった。それなのに、あえて今それを口にしたのは、悪意だ。害意だ。この子のことを傷付けようとしている。レンドールは憤った。
そして消沈しているQ・Pに触れようとして、手を止めた。
「ボクはもうレンドールから何も奪いたくない」
「Q・P」
「ごめんなさい」
「……Q・P、たしかに僕も、奪われたくないものはあるよ」
――それはキミなんだ。
「青い鳥。僕は、僕の大切な人を奪われたくはない」
「……でも、」
「キミが望んで離れるというのなら、悲しいことだけれど、喪いたくないものでも僕は諦められる。でもそうでないのなら、世界で一番大切なひとを、どうか僕から奪わないで」
ぽろりと、顔を上げたQ・Pの瞳から涙が流れた。
不甲斐ない。あと何度キミを泣かせたら、キミを蝕む不安から解き放ってあげることができるのだろうか。
「ボクはずっとケンといたい」
「うん。僕もそう思ってる」
「でもボクはケンに新しい家族を作ってあげることはできないから」
「いいんだよ、そんなこと。それは僕も同じことなんだ。キミはそれでも構わない? この先ずっと二人きりの家族だとしても」
「十分だよ。ケンがずっと傍にいてくれるなら」
「じゃあ、どこにも行かないで。僕の傍にいて、青い鳥」
縮こまっている身体をぎゅうっと抱き締めると、腕のなかでQ・Pは頷いた。
「……ごめんなさい……」
「それは、何に対する謝罪?」
「いつも泣いてケンを困らせてばかりいるから」
「僕のことは構わないよ。できればキミを泣かせてしまいたくないと思っているけど」
指先で涙を拭う。本当に、こんなふうに悲しませたくないと思っているのに。誰かと生きるということは、決して容易いことではないのだと思い知らされる。
きっと本来ならば、こういう時間を何度も何度も積み重ねて、そうして心を通じ合わせてから、結婚するのかも知れない。その段階を飛ばしてきたという自覚のあるレンドールは、彼が迷ったり、立ち止まったりしても、ちゃんと自分が受け止めようと思っていた。
二年も経つのにまだすり合わせできていない部分があったのは、自分の至らなさゆえだ。もっと彼を信じて、何でも話し合うべきだったのだろう。この先家族が増えることがないとしても、それを残念だと思うことはないのだから。
「ごめんね。ルイーザのことはキミに話しておけばよかった。キミを心配させたくなかったんだ。彼女のことは、僕もどちらかと言えば面倒で、困っていて……。でも、彼女がもう僕とキミに接触することはないよ。アドレスも消したし、Facebookもブロックしておいた。もうコンタクトを繋げないように、友人にも話しておくから、安心して」
「いいの?」
「うん。どういう相手でも、キミを傷付けようとしたことを僕は許せないからね。もう関わるつもりはないよ。家に来たって追い返すさ」
ベンチの隣に座って肩を抱き寄せると、Q・Pも身体をぴったりとくっつけた。この温もりを失っていたのかも知れないと思うと、ゾッとする。どんなに心が凍り付いたことだろうかと。
ここに来るまでにレンドールは、同じように彼を求めて来た二年前のことを思い出していた。折しも季節は同じように春。彼と出会ったのも春の日のことだった。その青く鮮烈な瞳とプレーに魅せられて、ずっとここまで青い鳥を追い求めてきた。きっとこの手は永遠に青い翼を求めているのだろう。
「Q・P、もし本当に僕が、彼女が言ったようなことを望んでいたのなら、こんな年齢になってから考えるのは、さすがに遅いと思うんだ。僕は、結婚もしないままかも知れないと思っていたし、それだけが人生の幸せだと思ったこともない。でも、今、僕にはこんなに素敵なパートナーがいてくれる。これはとっても幸運なことなんだと思っているよ。幸運で、そしてとても幸福なことだ。だから、それ以外に必要なものはないよ。キミとの未来以外、何も欲しいものはないんだ」
さあ家に帰ろう、とレンドールは立ち上がって手を差し伸べた。
「僕たちの家に。キミのご飯が食べたい。二人で食べて、二人で喋って、二人で眠って。大切なのはそういう僕たちの生活だけだよ、青い鳥」
Q・Pはきゅっとその手を握った。瞳にまた薄っすらと涙が浮かんでいる。
道に迷ってしまったとしても、彼が自分にひたむきな愛情を傾けてくれるなら、大丈夫だと思える。そして自分は、そんな人を喪いたくない。絶対に。この指先を離そうと思うことはない。
「心配を掛けたくないと思っていただけなのに、余計な心配を掛けてしまってごめんね」
「ううん。ボクも心配を掛けたくなくて、言ってなかったこともあるから」
「……それは、どんなこと?」
「こないだ付きまとってきた女の人がいて」
「えええッ! ど、どういうことだい、それは!」
「スポーツ記事のインタビューのときに会った人なんだけど、しつこくて……ちょうどボルクが一緒にインタビューを受けていたから、追い払ってもらったんだけど、ケンが心配すると思って」
「当たり前だよ……! どこの雑誌の人だい? ちょっと待って、僕が行かなかったときなら……」
「もう何もないから平気だよ、ケン」
「そういう場合は会社にも苦情を入れておかないといけない。どこの会社だった? GTAからも圧力を掛けてもらった方が」
「もう大丈夫だから、ケン」
*
『いやだから前に言っただろうが』
「何を?」
『お前と監督がとっくに結婚してたって聞いたときのことだよ』
「ミハエル。何度も言ってるけど」
『ハイハイ、監督な!』
先日の、Q・Pが『別れる』と言い出してレンドールをたいへん心配させた事件の顛末を、Q・Pはミハエルに電話で話した。どうしてミハエルかと言えば、恋愛相談のようなことは、割とミハエルにしていたこともあるし、Q・Pはミハエルを頼りになる人だと認識しているためだ。
Q・Pは同じく一つ上の年齢であるボルクのことも、たいへん心強い人だとは思っているが、倒したい相手というライバル意識も強いので、相談を持ち掛けようと思うのはまずミハエルかも知れないと思う。テニスについての技術的なことならば聞くけれど。
なおこれはどちらの方が頼れるかとか、彼らの実力に差があるからだとか、そういう話ではない。かつてボルクはGTAに乗り込んできて、「オレを倒したくば代表チームに来い」などと言い放った男で、さらに未だ倒すこと能わずという因縁があるからの話である。ふつうにQ・Pがよく会っているのはボルクの方である。
(ケンはもう監督じゃないんだけど、ミハエルにとってはずっとそうなのかも)
それで、ミハエルにした話はもう終わったことで、それからも日々は変わらずに進んでいる。Q・Pとその夫は、今日も仲睦まじく暮らしている。ただあの日の夜、自分を抱き締めて眠る腕が、朝までずっと力強かったので、きっとレンドールをとても心配させてしまったのだとQ・Pは後悔した。浅慮だったと思う。一言いってくれたら良かったのにと、レンドールは自分を非難しないけれど、強く思ったことだろう。
でもその一言をあのときのQ・Pが言えなかったのは、多分、自分が彼に否定されるのをどこまでも怖れてしまっていたからで。でもそんなことでレンドールを傷付けるのも本意ではないのだった。
『だから言っただろ? 18で結婚するなんて、監督はお前にそれだけ執着してるんだろって』
「そういうことじゃないよ」
『じゃないわけあるか』
本当に、それは、そういう話ではないのだ。Q・Pは彼を正しく理解している。レンドールはただ、Q・Pの空白の家族の欄を埋めてあげたいと思ってくれただけなのだ。そのための方法として、結婚を選んだ。目的としては、養子でも構わないという部分はあったのだろうが、恋人として過ごしていたのだから結婚という形が自然、それだけのこと。
もちろんミハエルの言うような側面も、まったくないというわけではないのだろうけれど。
『他の人間を入れる隙をミリも与えたくなかったってことだろ』
「そもそもそんなのないから」
レンドールはQ・Pが別れることを選んだら別れるつもりでいると言っていた。執着心などという言葉が正しいのなら、そうは言わないはずだ。
ただ――ただほんの少しだけ、あの夜の腕の強さを覚えている。それを、執着と呼ぶことがあるのかも知れない、とふと思った。
『つかこの後アメリカ行く予定だろ? そういうのはどうするつもりだったんだよ、Q・P』
「コーチにも訊かれたけど」
何も考えていなかった、としか。
別れたあとにもコーチをしてもらうのは気まずいのではないか、とか、全然何も考えていなかった。本当に、本当に浅慮だったのだ。そうなってくると、「別れる」とか言っていたのは、単に子どもの癇癪だったとしか言えない。恥ずかしい。レンドールに愛想尽かされていなくて本当に良かったと思う。
――結婚したことが正しかったのかどうか、まだ若いキミが迷うのは当然のことだ。
――だから、自分を責める必要もないんだ。僕はちゃんとここにいるから。いつもキミの選択を尊重する。ただそれだけだよ。
レンドールに丁寧にそう諭されて、Q・Pはようやく、自分が何かを奪ってしまうのではないかと怖れることを、少しだけやめられるようになれる気がした。自分自身に深く根差す感情は変わらない。でも、レンドールは傍にいて寄り添ってくれる人だ。そしてそれは、彼自身が望んでくれることなのだと信じられる。
もしもまた不安になっても、「大丈夫だよ」と言ってくれる。そう、思えたから。
『……お前も後先考えずに行動する前に、言えよ。オレに言え』
「ミハエルに?」
『もしもオッサンに言いにくいことでもオレにはいいだろって話だ。こっちも心配すんだろ』
何だろう、ミハエルがよく言う嘘だろうか、とQ・Pは少し思った。こうしてたまに電話をするけれど、別にそれだけで、心配をされるような間柄ではないと思うのに。
(ああ、でも)
もしミハエルが同じようなことをしたら、と思うと、「それって心配になるよね」と思い直した。自分がそう思うなら、相手がそう思っても当然だ。
「Ja.」
『ま、お前も素直に頷くようなヤツじゃな……えっ、今なんつった?』
「だから、わかったよ。これからはミハエルに言うから」
『お、おう。マジか』
「ミハエルも何かあったら言って。アストリットのことでも」
『……それはまぁ、わかんねぇけどな』
ミハエルは、ハハ、と笑っていた。
Q・Pが笑い声を聞いていると、トントンと肩を叩かれる。いつのまにかレンドールが部屋から出てきたようだった。
「Q・P、友だちと話してるのかい?」
「ミハエルだよ」
「ああ。仲がいいんだね」
代わるかと尋ねたけれど、レンドールは「大丈夫」と手を振った。
「じゃあ、そろそろ切るね。また電話するよ、ミハエル」
『んだな。また会うのも楽しみにしてる』
「こないだのオープンは二回戦までだったよね」
『次はもう少し上がってやるぜ』
「うん。楽しみにしてる。またコートで会おう、ミスター・タイブレーク」
また笑ってミハエルは電話を切った。
電話を終えると、レンドールはQ・Pの隣に座り、やわらかく髪を撫でてくれた。この時間だけが、自分の幸福のすべてだと思う。
(ううん、まだだよね)
世界で一番のテニス選手になること。その栄冠を二人で掴むこと。
惜しみなく自分を愛してくれる人のために、自分の人生を捧げること――そうして得た勝利をいつか差し出せる日が来るまで、これからも二人で走り続けていこう。
end.
めでたしめでたし。ということでした。タイトルはハッピーエンドです。
逃げる受けと追ってくれる攻めが永遠に萌えテーマですので最後までそんな話でした。
思えば、何もかもがマジで捏造でしかない「meinen blaue Vogel」を書いて1年くらい経過している気がしますね~。そしてQ・Pちゃんは「Blauer Vogel」のキャラソンを出したのであった。それはまぁ順当だね。どうでもいいことではありますがmeinenなのはドイツ語の格の問題で、4格にしたのはIch liebeの目的語に置いているつもりだからです。多分合っているはず……。昔大学時代ドイツ語をとったけど全然活きてないまま生きてる。で、あんまり出てこない名前に使ったのはblauで名詞の青。
考えて書いてるはずなんだけど常用してない言語だから不安だな~。常用してない言語、わからない習慣、知らない地理。難しいですね。その前はアメリカァァって感じだったから、そろそろ日本に帰りたいですわね。(過去は戦国時代で頭が痛いこともあったわね)
いずれにしても着地点に辿り着けて何よりです。くっつくまでの過程を書くのが好きな方なので、一本に絞ってその後まで書いたのは私的にはかなり珍しかったのですが、これだと思える話が書き上げられたので満足です。
あとはもう新テニスの王子様を最後まで見守って、いずれきっとプロ編で出てくるだろうレンドールコーチとQ・Pの活躍に期待するのみですよ! ね!!